Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"永別"
〜Final Farewell〜

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 振り払われたのは、左腕だった。
 名を呼ぶ。だが魔力風にさらわれ、実際に口から出たかどうかも判らない。視界の中央、兜の頭頂が遠ざかって行くのが、中空にいるカッシュにはひどくゆっくりと見えた。耳元で、シュリアストの声がもう一度名を叫ぶ。
「シャンク!!」
 シャンクは着地ざま、永久(とこしえ)の闇に手を伸ばすエンガルフの背に馬乗りになり、首を締め上げた。
「コウさんの、仇(かたき)を取るのは…ボクだ…!」
 地上から巻き上がる魔力風に乗って、それが微(かす)かに聞こえた。確認できたのはそこまでだ。
 耳をつんざく高い音を感じた、気がした。それを最後に、耳は音を失った。
 体が跳ね飛ばされた。指で弾かれた爪先の埃(ほこり)のように。カッシュの肉体は他愛なく四散した。―――いや、それは錯覚だ。生きていた。しがみつくようにシルドアラの兄弟二人を抱きかかえたまま、カッシュは光の波に翻弄される。
「がああああ…!!」
 己の声も聞こえない。目を開けることもできない。口に何かが飛び込んで来たが、それを吐き出すことも叶わない。匙(さじ)で乱暴にかき回される杯の中でなすすべもない、そんな心地だった。
 上へ。上へ。カッシュはひたすらにそう願った。地面に叩きつけられるよりは、幾分望みがあるはずだ。
 ―――耐えろ。耐え切れ。
 上下左右から光の圧になぶられる。二人を抱える腕が、根元から折り取られそうだ。だがこの手は離すまい。仕方ない、ラドウェア女王と巫女が心底愛する者たちだ。仕方ない。だからこの手は、離すまい。
 息ができない。破れただろう鼓膜が、聴覚に雑音を送り続ける。構ってはいられない。ただただ、祈る。物心ついてから、ろくに祈ったことはない。それだけ稀(まれ)な祈りだけに、利益(りやく)があってもいいはずだ。七界を司(つかさど)る龍王よ。この世の全ての精霊よ。守り給(たま)え。守り給え。
 その祈りの終わらぬうちに、一層強い衝撃に吹き飛ばされ、全ての感覚も、それを感じるべき意識も、失われた。

◇  ◆  ◇


 ひどく現実離れした光景だった。
 垂れ込めた分厚い雲を穿(うが)つ、城をすっぽりと包み込むほど巨大な穴。その奥にあるものを、モリンは見た。
 五つの界がひしめき合っていた。風界、火界、水界、霊界、そしておそらくは―――理論上存在すると言われているがその証明はされていない―――天界。それらの間を埋めるのが《狭間》、それにこの《地上》を合わせて七界と呼ばれる。
 五界、いや、七界の全てが引き寄せ合い、絡み合うのが、モリンには見えた。
 ―――美しい。
 それは確かにこの世のものではなかった。その壮麗さは、ともすれば見る者の魂を奪い去りそうだ。だがその時間も長くは続かなかった。
 口を開けた七界の中央に、光の玉が生じた。と見えたのもつかの間、光は一瞬で辺りを満たし尽くした。
「来るぞ!!」
 セージロッドが声を張る。烈光に目を灼かれる。次の瞬間、強烈な振動が臓腑を撃ち抜く。魔導師たちは一様に半歩下がって踏み留まった。―――生きている。防護結界は無事だ。
 最初の衝撃を凌(しの)げば、第一の難局は突破だ。それはどうやら成功したようだ。
 モリンは目を瞑(つむ)ったまま、慎重に呼吸を取り戻す。激しい鼓動は、大地と大気の振動のためか、極度の緊張のためか、はたまた人ならざる力への畏怖か。手先が冷たく、震えている。膝もだ。一度尻餅をついてしまえば、もはや立ち上がれないだろう。
 ―――耐えろ。耐え切れ。
 轟音に耳を、脳を、内臓を揺さぶられ、全身をがくがくと震わせながら、モリンは奇(く)しくもカッシュと同じ呟きを繰り返していた。
 針の細さほどに薄く目を開く。魔力の壁の向こうには、ただ、光。破壊されたはずの城壁や家々が防護壁に衝突する気配はない。なぜか。モリンは冷や汗が背を伝うのを感じた。布、木材、石材、鉄、それら全ては、砂粒ほどに砕け散ったか、跡形もなく蒸発したのだ。
 第二の難局は結界の維持、すなわち魔導師たちの残存魔力が《七星の王》に耐えうるか否かだ。
 ひとたび負荷のかかった結界は、解かれるまで彼らの魔力を容赦なく奪い続ける。一人でも力尽きれば、防護壁は瓦解する。ラドウェアは塵となり、この地上から永遠に失われる。
 ヴァルトの計算では、問題なく耐えうるはずだ。誰もが怯まなければ、という仮定の上で。
 今試されるのは、魔力だけではない。精神だ。不安を、恐怖を、感じずにいることは人間として不可能。ゆえに、己から一歩離れた位置に心を置く。己を俯瞰(ふかん)する。感情をも観察対象とする。魔導師団に属する者なら誰しも、その鍛錬は行なってきた。
 だが、これほどの人数で結界を展開する事はかつてない。まして結界が最後まで保たれる確証は、ヴァルトの言葉に依(よ)るほかない。
 一人が崩れたならば、全てが崩れ去る。命の欠片すら残るまい。そうなるよりは、離脱して己の周囲にのみ結界を展開すれば、自分だけは助かる可能性はある―――そう考える者が出るかも知れない。否、誰しも脳裏をよぎったはずだ。
 魔導師団は必ずしも一枚岩ではない。ラドウェア国内のみならず、大陸のあらゆる都市や村落から素質のある者を登用する。生じる軋轢(あつれき)は少なくはない。
 だが、個々の利益あるいは心情では量り得ぬものを、ラドウェア魔導師団は背負っている。各々(おのおの)に、磨き上げられたその自負がある。
 眩(まばゆ)い光の中、モリンは意識的に深い呼吸を保った。
 ―――僕が怯んでは、いけない。
 不安は不信を呼ぶ。不信は即、死を呼ぶ。
 ―――僕が信じなければ、始まらない。
 《七星の王》の猛烈な威力に耐える魔導師たち。その背にはラドウェア本城と、すべての民。愛しき者、親しき者、あるいは互いに名も存在も知らぬまま、社会の循環により関わってきた者。彼らを守るために、死力を尽くす。今は―――否、今も昔も、それこそが魔導師団の使命だ。
 時は長らく止まっていた。脳がそう錯覚し続けていた。永遠にも思えたが、ものの一分も経っていなかったと言われても納得しただろう。
 初め、モリンは気づかなかった。光に視力を奪われていたからだ。だが結界を支える魔導師たちは気づいた。結界にかかっていた力がすっと引き、全身からの魔力の流出が緩まったのだ。
 光が消散した。崩折(くずお)れまいと前のめりで結界を展開していた魔導師たちが、支えを失い倒れ込むように膝をつく。
 目を開けることは辛うじてできた。だが視力を取り戻すには時間を要した。眉間に深い皺を刻み、明滅する視界をなだめながら、モリンは懸命に、そこにある光景を見定めようとする。
 景色は、変わり果てていたという言葉では到底足りなかった。
 ない。何もない。崩れた家々も、塔も、城壁も、そして地面さえも。目を下ろしてようやく、遥か遠くに木々が見えた。そこに至るはずの下り坂は深々とえぐれ、白い煙と焼けた土の匂いをくゆらせている。
 おそるおそる、後ろを振り向く。城門。それを辿って、視線を上げて行く。垂れ込めていた雲は全て、かの魔法が払い去った。澄み切った空を背景に、ラドウェア本城は、揺らぐことなくそびえ立っていた。
「やった…」
 誰の口から漏れた言葉かは知れない。だが、間違いなく、この場に存在する者たちの総意だった。
「やっ…た…!」
「やった、やったぞ!!」
 そう―――彼らは間違いなく、《七星の王》の恐るべき破壊力から、ラドウェアの城を、民を、守り抜いたのだ。
 いまだ立っていた数人の魔導師たちも、安堵からか魔力の限界からか、崩れ落ちるように膝をついた。ある者は笑いながら天を仰ぎ、ある者は同じく笑いながら大の字に寝転がる。
 門が開く。ラドウェアの民が、城からどっと吐き出された。精魂尽き果てた魔導師団の面々に、人の波は歓声を上げながら押し寄せる。家族、親族、友人、恋人。労(いたわ)り、はしゃぎ、むせび、喜びを分かち合う。中には誰彼構わず抱きついてはぶんぶんと握手を交わす者もある。
 魔動人形が、ヴェスタルが、エンガルフが、どうなったのか今は知るよしもない。だが、守るべきものを守り切った。その極上の現実に、魔導師団の誰もが酔いしれていた。
 ―――ただ二人を除いて。

◇  ◆  ◇


 ごぼっ、と己の喉(のぞ)が鳴る音を聞いた。と思う間もなく、鼻と口とを内側からふさがれる。
 息を強くし、ふさいだものを吐き出す。飛び散る紅。―――血だ。
 ティグレインは膝を折った。呼吸が詰まる。息をするには、血を吐き切って気道を空けるしかない。吐く。吐く。ひたすら吐き出す。紅がその支配域を広げていく。
 眼球が重く脈打つ。視界がぶれる。耳鳴りがする。血で潤っているはずの喉が、ひどく渇く。
「だから言っ―――」
 聞き慣れた声がした。だがそれも一瞬だ。声が止まったのか、己の聴覚が失われたのか。重苦しい熱と凍るような冷えの中、隣に目を、向ける。
「あ……れ?」
 黒衣の男が、床に座り込んでいた。上半身を支える腕は、見てわかるほどに震えている。
「やっべ…、人のこと言えね……」
 その唇は、笑っている。だがその笑みさえも、震えている。
 不意に、男の肘が折れた。不格好に顔から突っ伏す。「あ」―――という声が聞こえた、気がした。それきりだった。
 空気に飢える喉を通る声は細く、男の名を呼ぶことができない。血にまみれた手を伸ばした、つもりが、もはや指の一本すら動かない。
「…ァル……」
 己の声も遠く、目に熱くあふれるものが涙か血かも定かではない。やがて、意識は泥のような闇に飲まれていった。

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