Radwair Chronicle
"わずらいの兆(きざ)し"
〜the Beginning of the Loop〜
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 それは本来の巫女の仕事ではない。
 彼女らの―――今となってはたった一人しかいない彼女の―――役目はもっぱら、霊界に落ちた魂を、魔物に食われるより先に救い出すことである。その力は霊界にのみ及ぶものであって、地上の生物に対する攻撃力はない。
 だが、巫女をおいて他に、「それ」を扱うに適当な者がいるとも思われない。
 現れたのが亜人や精霊であれば、魔導師団の仕事となる。しかし今回の件に彼らは出動を許されない。なぜなら、魔導師団の遵守すべき最大の掟に触れる。すなわち、『魔導師以外の人間を相手に力を行使してはならない』。
「…掟を定めた初代魔導長殿は、さぞかし歯噛みをして悔しがる事であろうな」
「かーもね」
 ヴァルトの位置からティグレインの顔は窺えないが、窺わずともわかる。実際に歯噛みをしているのは現魔導長殿に相違ない。
 城の裏庭を一望できる窓辺で、ティグレインはじっと腕を組んだまま、巫女の館から駆け出す影を見送った。彼女のか細い双肩に任せる他にない。
 ―――霊界の魔物が、人間の体を乗っ取って暴走したのだ。

−  ◇  ◆  ◇  −

「今どのあたり?」
「馬小屋から馬を盗んで逃走中です」
「馬!?」
 信じらんない。聞こえぬ程度にそう吐き捨てて、レリィは足を速めた。
「目標は大通りを北上して、北門に向かっています。内城門内に閉じ込めるよう指示しましたが、念のため外城門も閉ざしておきます」
 直接手を下せぬ代わり、魔導師団は全面的なバックアップを申し出ている。もっとも、それがレリィのプレッシャーをより大きくしているのは皮肉な話だ。緊張の面持ちの彼女の周囲には、ぴりぴりと張り詰めた空気が漂っている。
 アリエンが歩みをそろえてささやきかける。
「お気をつけ下さい、レリィ様」
「わかってる」
「過去にこのような行いのあった例はありません」
「馬?」
「ええ」
 アリエンは一呼吸置いて続けた。
「暴れるだけや逃げ出すだけの例はありました。しかし、馬を乗りこなすとなると…」
「人間並みの知識のある魔物…」
 ありえない。知能のある魔物が住まうのは、霊界の第二層より下層。だがそれだけ深い場所に住まう魔物であれば、地上に出られるはずがない。ありえない事が、起こっている。
 ただでさえ、人間に取り付いた魔物は、人間の潜在能力あるいはそれ以上の力を発揮する。さらに知恵までついているとなれば、そして事によっては何らかの力を使うとなれば、厄介以上のものであることは間違いない。
「どうしろっていうのよ…」
 腹立ち紛れに呟く。聞こえたか、アリエンが心もち彼女を見上げた。
「ヴィルオリス殿は?」
「え?」
「彼であれば魔導師団の掟には障りませんが」
 さすがに元魔導長、抜け目のないことを言う。あるいは駒の使い方を心得ているというべきか。
 レリィはためらった。確かにあの白亜の半精霊は、魔導師団に属していない。よって掟に従う必要もない。
 だが彼はしばしば、己とレリィとに忠実なあまり、命令に対して忠実ではなくなる。ともすれば、魔物そのもの以上に面倒な暴走を起こしかねない。やむをえない状況にならない限り、彼を動かしたくはなかった。
「外城門は閉めてあるんでしょう? なら大丈夫じゃない?」
「ですが、もし市街地に紛れ込まれでもしたら…」
『目標、内城門を通過しました!』
 アリエンの首もとの飾り玉から通信が入る。一瞬歩みを止めて、アリエンは返信した。
「了解、向かっています」
「…ね。大丈夫でしょ?」
「ですが、万が一という事もあります。使える駒は全て動かし…」
 悲鳴にも似た通信がさえぎった。
『目標、馬を降りて外城壁から飛び降りました! 逃走中です! 目標は逃走中です!』
「なんですって!?」
 二人は同時に叫んだ。どうやら“万が一”が起こったらしい。

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