Radwair Chronicle "わずらいの兆(きざ)し"
〜the Beginning of the Loop〜
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「信ッじらんない!」
 地団太を踏みかねない勢いで、レリィは忌々しげに言い捨てた。だがすぐに顔を上げる。
「ヴィル! ヴィル!」
 名を呼べば必ず現れる。彼女の後ろに、白い影が降って湧いた。顔に深くかかる白い髪の間から、二つの切れ込みのように切れ長の深紅の目が覗いた。
 名はヴィルオリス。後の世の人は、彼を“白銀のヴィルオリス”と呼ぶ。
「レリィ。私を呼んだか」
「人を探して。特徴は…」
「黒茶の髪に長身、白い服だそうです」
 アリエンが継いだ。ヴィルオリスは低い声でゆっくりと反復する。
「黒茶の髪、長身、白い服…」
「北門から出て森へ向かっています」
「わかった」
「見つけたら、取り押さえて。殺さないで。絶対に殺さないで」
 レリィは繰り返し念を押す。いくら魔物とはいえ、乗っ取られているその体は人間なのだ。傷つけてはならない。もっとも、外壁から飛び降りたというその時点で、足や腕の一本は折れているだろうが。
「いい、取り押さえるだけよ。絶対に殺しちゃだめ」
「わかった」
 ふわりとヴィルオリスの体が揺れ、宙に舞い上がった。真っ青な空に直線を描いて、北門方向へ飛んでいく。それを最後まで見送ることなく、レリィは再び歩き出した。
「…急がないと」
「ヴィルオリス殿の力ならば大丈夫では?」
「器用じゃないのよ」
 唇を軽く噛む。足は緩めるどころか駆け足になったが、橋を渡り市街地に入ったところで、早くも息を切らした。
 と、後ろから蹄の音が迫ってきた。振り返る。
「乗れ!」
 二人の横で手綱を引き、馬上から手を差し出した男は若い。前開きの上着は、遠い国シルドアラのものだ。
 立ち尽くすレリィに代わって、アリエンが反応した。
「シュリアスト! レリィ様は、」
「…わかった。乗せて」
「レリィ様!?」
 驚愕のアリエンに目もくれず、スカートを払って、シュリアストが外した鐙(あぶみ)に足をかける。顔はこわばっているが、目には強い決意が宿っていた。その腕をしっかりとつかみ、シュリアストは彼女を馬上に引き上げる。
「ヴィルを追って」
 姿勢を整えるのももどかしく、レリィは早口に告げる。
「お願い」
 その短い言葉のうちに、馬はだく足から駆け足へと変じていた。そのまま数歩で風になる。レリィの長い髪が激しくひるがえった。後ろからアリエンの声が届いたが、聞き取れない。
 人通りの少ない午前の北門通りを、一陣の風が馳せる。人々は、怒涛のような蹄の音に振り返っては慌てて道を開け、あるいは何事かと凝視を送る。
 男に半ば背を預けながら、見世物になっている。顔の紅潮を抑えられず、こみ上げる吐き気とも震えともつかぬものに咽をふさがれながらも、レリィは毅然とした態度だけは貫いた。両手で鞍の前をしっかとつかみ、シュリアストに体が触れぬよう、前傾姿勢をとっている。
「硬くなるな、馬が疲れる」
「っ…」
 わたしより馬に気を使うなんて、ずいぶん優しい人ね。
 自由がきけば憎まれ口のひとつも叩いただろうが、声にならない。緊張のせいもある。それ以前に、疾駆する馬の背で不用意に口を開けば、舌を噛み切りかねないだろう。
 角を曲がった馬首の向こう、先の馬と鉢合わせたものか、横転した荷台が道をふさいでいた。
「!」
 口を開きかけたレリィは、不意に後ろから腰を抱え込まれた。耳元で鋭い呼気がしたかと思うと、軽い反動を残して重力が消える。
「…ぁ、」
 声を、上げようとした時には跳躍は終わっていた。着地の衝撃はシュリアストの左腕が吸収し、何事もなかったかのように駆ける馬の背に降ろされる。
 いまだ呆然とするレリィの視界に、内城門が入ってきた。シュリアストはようやく速度を緩める。門兵に手を上げただけで内城門を通過し、さらにひと駆けして外城門に入って、集まった兵らと二言三言交わす。
 馬が走り始めた。城門を抜け、再び日の明かりのもとに出る。
「気配は?」
「……」
「レリィ?」
「え、なに?」
 全てを夢の中のように感じていたレリィは、シュリアストの問いが自分に向けられたものと気づくのに遅れた。少々苛立った様子のシュリアストが、もう一度尋ねる。
「その兵士の気配は感じられないのか?」
「わからない…。そういうのはないから」
「行き先の心当たりは?」
「そんなのないわ。だって、」
 一旦は言いよどんだが、言いかけてしまった以上、続けるより他になかった。
「わたし、門から出たの初めてだもの」

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