Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"師弟"
〜Master and Pupil〜

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 夜が忍び寄っていた。魔光灯の明かりに照らされ、山と積まれた本が、主のいない部屋に影を落としている。
 その隣、本棚とカーテンに仕切られた空間が、現ラドウェア魔導長の寝室だ。寝台に体を横たえ、本棚の隙間から漏れる光に照らされながら、彼は漠然と天井を視界に入れていた。右の頬をはじめ、白い部屋着の袖口や襟首からはみ出す布は、火傷を処置した跡だ。
 額に手を当てたまま、瞼を閉ざす。
 ―――些細な事だ。魔導長としてラドウェアを守るという大事の前には。
『ティグレインといったか。ぬしは良い発音発声ができる。特殊言語魔法というものを教えてやろう』
 かつての師であった男は、今、敵に回った。
 ―――些細な事ではないか。
 何度言い聞かせても、胸のもやは晴れなかった。そのもやを直視することも、彼にはできなかった。
 『悩むな、考えろ』。それを信条とするティグレインが、この度(たび)ばかりは、考えることを放棄しようと努めている。
 恐れていた。もやが晴れた時に現れる、昨日までとは完全に異なる世界を。その世界と向かい合う準備は果たして自分にできているか。答えは否だ。
 深く溜息をつく。と、遠慮がちに扉を叩く音がした。一度は閉ざした瞼を開き、ティグレインは誰何(すいか)する。
「誰か」
「ディアーナです。もうすぐ会議始まるけど、出られ…」
「とーーーーう」
 ヴァルトが飛び込むように扉を押し開けた。唖然とするディアーナをよそに、足取り軽くカーテンに近づき、一気に引き開ける。
「はーい魔導長、会議出ますか出ませんかー?」
 普段であれば冗談や皮肉のひとつも返すところを、ティグレインは無言のまま、生気のない目線をやっただけだった。魔光灯の明かりを背に、ヴァルトは首をかしげる。
「…相当やられた?」
「えっ」
 ディアーナが顔をのぞかせる。魔導長ティグレインが敵魔導師の魔法で負傷したとの報は入っている。だが彼女は、ヴェスタルとティグレインの関係を知らない。ヴァルトの「相当やられた?」が、体の負傷の程度を示したものと受け取ったとしても、それは当然のことだ。
「陛下、このままにて失礼致します。後ほど伺いますゆえ、会議には遅れるとお伝え下さいませ」
「はい。…怪我はどう?」
「大事ございませぬ」
 シュリアストの機転で応急処置はされたし、モリンの薬による手当も済んでいる。これ以上、手の施しようはないことはわかっていた。あとは傷が癒えるのを待つだけだ。大事ないとは言ったが、それは騒いだとて意味がないという諦めでもある。
「わかりました。それじゃあ、また後でね」
 ディアーナが首を引っ込める。数歩の足音の後、部屋のドアが閉まる音がした。
 全身の力を吐き出すような溜息が、ティグレインの口から漏れた。
「貴殿、…そうか。ヴェスタルとは知己であったな」
「うん」
 そのヴェスタルにティグレインが師事していたことを、ヴァルトは初対面で見抜いた。もう十年も前のことだ。
 ティグレインの唇が自嘲的につり上がる。
「かつてのヴェスタルを知る者には、私の裏切りを案ずる声もあるやも知れぬな」
「いいんじゃない? 裏切っても」
 思いもしない言葉に、ティグレインは一瞬表情を忘れた。ヴァルトは至って淡々としている。全くの他人事を語っているかのように。
「今のティグっちならオレ倒せるかもよ?」
「そうは到底思えぬが」
 そう応じてから、ティグレインは沈黙した。やがて思案から立ち戻り、視線をヴァルトに向ける。
「貴殿も……私が裏切ると?」
「いや絶対ムリ」
 即答だった。ティグレインは狐につままれたような顔をする。
「…前提がそれでは、先のやり取りの意味は」
「うん、意味ないね」
 一呼吸置いて、ティグレインはフッと笑った。「貴殿と話していると、何もかもが馬鹿らしい」―――それは口に出せばこれ以上ない賛辞であろうが、ティグレインは心の内に留めることにした。
「さて。会議にて申し開きをせねばな」
「つか、出れんの?」
 ヴァルトの示唆するところは全身の火傷だ。ずぶ濡れでカッシュの肩を借りながら部屋に戻ったのが昼、モリンの処置が終わったのがつい先刻である。薬が塗られたからといって痛みが消えるものでもない。今しも、無表情の仮面の下、体を蝕む苦痛にティグレインは耐え続けているはずだ。
 かといって、この魔導長が一度口にしたことを撤回するとも、まして自身さえ耐えれば済むことを大げさに騒ぐとも、ヴァルトが思うはずもない。
 問いには答えず、ティグレインは右手を差し出した。
「手を貸して貰えるか」
「いーよ、途中で離してもいいなら」
「フッ」
 伸べられたヴァルトの手をしかと握り、ゆっくりと上体を起こす。両足を下ろして床につける。そこで一つ深呼吸をし、ティグレインは、やはりゆっくりと、立ち上がった。床を踏みしめ、ヴァルトに向き直る。
「ヴェスタルの事、くれぐれもアリエンの耳には入れぬ様に」
「んー、ま、入っちゃったらどうしようもないケドね」
 ヴァルトは指先を顎に当てる。考えるような仕草だが、すぐに手を降ろした。
「ヴェスタルは次の手を用意してる。伝えといて」
 《漆黒の魔導師》の異名を持つヴァルトといえども、魔導長でも副魔導長でもない以上、会議に出席することは許されない。外部の者が参考人として呼ばれることはあるが、それもヴァルトに関しては過去にただ一度、レキアが精霊獣を駆使してラドウェアに攻め込んだ時だけだ。
「承知した」
 一言残して、ティグレインはヴァルトとすれ違った。普段よりも少し控えめな足音は、傷をかばってのことだろう。その足音が消えるまで、ヴァルトは窓からの空と山とを眺めやる。夕刻はとうに過ぎ、山間(やまあい)に細くたなびく雲が、夕日のわずかな名残を映していた。

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