Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"致命"
〜a Fatal Wound〜

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 死者の群に囲まれなおも混乱する兵士たちの中に、すさまじい勢いで死者たちを退けながら、新たに一騎が飛び込んで来た。
「退け、ジャルーク!」
 シュリアストだ。突き出される槍や斧を払い続けた剣は、既に数箇所もの刃こぼれを起こしている。
 ジャルークはなおも茫然としていた。魔導長からの命令は届いている。だが近衛長を見捨てて撤退せよなどと。
「コウは俺が何とかする! 退け!!」
 シュリアストのその言葉に我に返ったように、ジャルークは声を張り上げた。
「撤退! 撤退せよ! 全軍撤退!」
 動揺する兵士たちに、なおも撤退の命令を繰り返す。シュリアストもまたそれに加わった。二人の上官の命令に、兵士たちは戸惑いながらも隊列を整え、撤退を始める。エンガルフが高らかに笑った。
「ハッハッハ! 無様だな、近衛長! 貴様を見捨てたぞ、貴様の部下は!」
 コウは無言のまま、口角をわずかに上げた。
 それでいい。それでこそ、シュリアストとジャルークには状況を判断する力と人の上に立つ資格が、兵士たちには秩序を守る能力が、それぞれあったということだ。
 思ったように反応しなかったコウに、エンガルフは興ざめの表情を見せる。だがそれはすぐに、不遜な笑みに変じた。
「まあいい。いずれ皆殺しだ」
 コウをぞっとさせるに十分な言葉だった。そして恐らく、その宣言を実行する力が、このエンガルフにはある。
 シュリアストが本隊と共に撤退していればよいが、彼のことだ、自分を助けようとしてここに戻って来るだろう。その前に片をつけなければならない。コウは剣を抜いた。
 ―――うまく行ったとして、刺し違え、か…。
 心臓の鼓動が早い。妻と子供たちとの思い出が脳裏を駆け巡る。
 ―――愚かな選択を、しようとしている。
 だがそれでいて、静かな微笑が自然と浮かんだ。自らを今ほど武人だと認識したことはない。天よ、ご照覧あれ。今、敵と対峙して心にあることは、ただ愛する者らを守らんとする願い。それが全てだ。
 コウはひとつ深呼吸をした。馬の横腹を蹴る。加速をつけ、エンガルフの頭めがけて、剣を振り下ろす。
 その寸前で、馬の動きが不自然に止まった。
「な……!?」
 剣を受け止められることを想定していたコウは、予想外の事態に目を見開いた。
 エンガルフの魔剣が、深々と馬の首元に突き刺さっていた。暴れようとする馬の、浮かされた前足が宙を掻く。馬一頭を片手で持ち上げる―――人ではありえない力だ。
「アッハッハッハ! 窮鼠(きゅうそ)猫を噛むか、面白い」
 心底面白そうに、エンガルフは笑う。
「その勇敢さに免じて、最期を見守ってやろう。刺し殺されるがいい。かつての仲間にな!」
 それを合図にしたかのように、死者たちがコウに向かって一斉に武器を突き出した。とっさに盾を掲げたが、全てを防ぎきるのは不可能だった。槍の一本が、脇下から胸に食い込む。
 最初に感じたのは熱、そして次には脳髄を侵す冷たさ。コウの口から血がこぼれ出た。むせるそのたびに、傷口が耐えがたい痛みを送り込んでくる。
 槍が引き抜かれた。思わず声が漏れる。どくどくと流れ出す血が、鎧下(ダブレット)に染み込みながらも脇腹を伝う感触。口を大きく開けて浅い息をしながら、コウはエンガルフを睨(ね)めつけた。
 エンガルフは捕えた獲物をいたぶるように、突き刺した魔剣をひねり上げる。馬が血と泡の混じった悲鳴を上げ、激しく身をよじろうとする。だが刃の半ばまで埋もれた魔剣がそれを許さない。
 悶え苦しむ馬の姿を、目を細めてひとしきり眺めやってから、エンガルフはようやくコウを見上げた。
「どうだ、処刑台からの眺めは。さぞかし心地よかろう?」
 殺しを楽しむ者、その抑えきれぬ笑いが、高らかな哄笑へと変じた。魔剣の突き刺さった馬の太い首を、根元からたやすくはね飛ばす。首と共に枷(かせ)を失った馬は兵士たちを巻き込みながら数歩駆け、主を乗せたまま膝を折って倒れた。勢い、コウは頭から前に投げ出される。衝撃に呼吸を阻まれ、次いで咳込んだ呼気には血が混じった。
 息が苦しい。肺をやられている。
 突っ伏した地面を、馬の蹄の音が伝わってきた。コウははっとする。
 ―――駄目だ。
 ―――来るな。
 ―――来るな!!
「コウ!」
 声と共に飛び込んできた一騎。シュリアストだ。彼はエンガルフに向かって、馬上から剣を振り上げ―――
 次の瞬間、いまひとつ馬の首が飛んだ。
 間一髪、上体を傾けてシュリアストは自分の首を守った。だが完全にはがかわしきれずに、頬から耳にかけてざっくりと傷が走る。兜は頬当てを紙のように切り裂かれて宙に舞った。
 馬は勢いのまま数歩駆け、走りながら傾き、ついには崩れるように倒れた。とっさに鐙(あぶみ)から足を外そうとしたが成せず、シュリアストは地面に打ちつけられる。
 馬の下敷きになった右足を抜こうともがくシュリアストの目の前に、エンガルフが立った。
「殊勝な心がけだ」
 初めて、シュリアストは間近でその男を見た。額と目鼻に朱の模様を施し、巨大な武器とも魔導具とも見えるその得物で、自らの肩を軽く叩いている。
「近衛長の代わりに殺してくれと?」
「―――」
 シュリアストは歯をむき出した。頬に鋭い痛みが走る。流れる血は、既に顎まで達している。
「ふ…ざけるなぁッ!」
 右脚が抜けると同時に、前のめりに立ち上がりざま斬りかかる。
 鋭い音。エンガルフは受け止めていた。あの質量の魔剣で、シュリアストの渾身の一撃を。
 一旦引いて、二度、三度。素早さを生かして切りつけても、剣を両手に持ち替えて全身の力を叩きつけても、全て軽々と受け止められる。
 シュリアストは距離を取った。コウを取り囲む死者の兵たちが視界に入る。
「コウ、逃げろ!」
 シュリアストの呼びかけに、エンガルフは高らかに笑った。
「片腹痛い。私を押さえたつもりか? この程度で?」
 エンガルフは空いた左手をかかげた。その手の先に闇が集い、球と化してシュリアストを突き飛ばす。かわす暇もない。背中から地面に叩きつけられる。鎧が激しく音を立てた。体を反転させ、シュリアストは立ち上がる。
 懐に入れば、格闘に持ち込むこともできるだろう。いかに力の強い者であろうと、素手であればシュリアストはそれをいなすすべを知っている。だが、魔剣が邪魔だ。あの速さで振り回されては、近づくこともままならない。
 魔剣を肩に乗せたまま、エンガルフは無防備に近づいてくる。シュリアストは慎重に剣を構えた。
 その剣先が、目の前から消えた。
「……、」
 金属の打ち合う感触すらなかった。断ち切られたのだ、とシュリアストが気づくまでに数秒を要した。
 無防備になった鳩尾(みぞおち)に、エンガルフが前蹴りを食い込ませる。シュリアストの体が一瞬浮き上がり、仰向けに倒れた。
 大粒の雨がひとつ、頬を叩く。シュリアストは目を開けた。鉛色の空が広がっている。それが奇妙に現実離れしていた。雷の音が、近い。
 戦場とは、血と土煙の記憶。打ち合う金属の音と鬨(とき)の声。だが、今、彼が直面している、これは。これは――― 一方的な、いたぶりだ。
 数秒のうちに雨は勢いを増し、鎧を打つ。シュリアストは緩慢に起き上がった。体を支配するものはただ、絶望。
 エンガルフは顎を上げて彼を見下ろす。
「つまらんな。これがあの男の弟とは」
 兄を知っている、ということだ。シュリアストは反射的に問った。
「貴様、何者だ!」
「《霊界の長子》。貴様はそれだけ知って死ねばいい」
 刃を振り上げ、エンガルフは言った。
「死ね」
 刃が一息に振り下ろされ―――それを何かがさえぎった。血塗られた刃先が、シュリアストの眼前で止まる。
「…コ…、」
 青ざめたシュリアストの唇は震えた。雷鳴が臓腑の底まで轟く。
 コウだった。盾で身を守りながら、シュリアストの前にその身を挺(てい)して彼をかばったのだ。だがエンガルフの刃はその盾すらやすやすと切り裂き、コウの肩から背へと食い込んでいた。
「がっ…」
 真新しい血が、コウの口から、傷口から、勢いよく噴き出す。またしても興ざめした顔で、エンガルフが刃を引き抜いた。コウは呻き、盾の重さに引きずられるようには倒れ込む。荒い息。激しい雨と共に範囲を広げ流れる血潮。
「……シュリ…アスト…」
 魔剣を横に構えるエンガルフを朦朧とした視界に入れながら、コウは声を振り絞る。彼の背後で、雨が激しく鎧を叩く音を呆然と耳に入れながら、シュリアストは竦(すく)んだように動かない。
 コウの唇が、かすかに笑んだ。
「お前…は……大事に……」
 刃が振られた。その後を引いて、コウの首が飛んだ。鮮血が噴き上がる。
「あ…」
 シュリアストの開いた口から、絶叫がほとばしった。
「あああああああああ…!!」
 コウの剣をつかみ取り、立ち上がる。首のないコウの死体が、血を噴き出しながらごろりと地面に転がる。
「あああああああ!!」
 剣を大上段に構え、自暴自棄のようにエンガルフに向かっていく。
「くどい」
 エンガルフはすっと前に出ると、シュリアストの振り上げた右腕をつかみ、下ろしざまにぐしゃりと鎧ごと握りつぶした。
「……!!」
 声にならない叫びを上げるシュリアスト。手からコウの剣が抜け落ち、ぬかるむ地面に突き立った。膝をつき、その場にうずくまる。
 前触れもなく、重い振動が地面を伝った。それは一度では終わらなかった。二度。三度。一定の間をおいて、振動は続く。激痛に苛(さいな)まれながらもシュリアストは顔を上げ、振動の源を探す。
「ふっ…クックック、完成したか」
 エンガルフが笑った。
「あれが貴様らの相手をしてくれるそうだ。退屈はするまいよ」
 そう言い残して亜空間を開き、霊界へと消える。
 刻一刻と強くなる雨の中、地響きとともに、森の中から一歩一歩近づいてくる巨大な魔動人形(ゴーレム)の姿があった。

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