Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"命に許された時間"
〜Lovers under Siege〜

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 胃の腑(ふ)が空(から)になり、吐き出すものが胃液だけになってもなお、嘔吐感はしばらくの間彼女の内臓を圧迫し続けた。吐瀉物(としゃぶつ)独特の鼻をつく臭いを、桶に蓋(ふた)をすることで封じる。闇の中、荒い息を繰り返し、嘔吐に押し出された涙をぬぐって、這うように寝台に戻ると、いつものように脇に置かれた杯に手をのばして水を飲み干した。
 ようやく人心地がついたように、レリィは深く息を吐いた。そのままひじを折り、寝台に体を横たえる。
 ―――わたしの、せいだ…
 ―――コウ……シュリアスト……それに……
 レリィは見ていた。魔導師ヒュレンが映し出した映像、次々と血に染まって倒れていく近衛たち、そして、そこに映るエンガルフの姿も。
 だれか、と、その時、我知らず彼女は呟いていた。だれか、だれか。
 ―――「呼べよ、おれを。助けを求めろよ」
 記憶の中の声が、言葉が、彼女に語りかける。レリィはかすかに首を振った。
 ―――だめ、来ないで。あなたは、いかないで。いかないで。いかないで。
 薄れていく意識の中、深紅の外套(マント)をひるがえして駆けていく巨漢を見たのは、あれは、夢だったのだろうか。
 意識を取り戻した時、レリィは寝台に横たわっていた。自分の部屋だ。倒れたところを親衛隊長クライアに運ばれたのだろう。
 気分は最悪だった。血を見すぎたせいかもしれない。あるいは、久しぶりに全軍鼓舞を発動させたせいであるのかもしれない。いずれにせよ、ここ数日よかったはずの体調が大幅に崩れたのは確かだ。
 近衛の被害はいかばかりだったのだろう。以前、北門西塔で命を落とした近衛が頭をよぎった。ラギ、といっただろうか。そのたった一人にさえ涙を流したディアーナ。この度の殺戮が、多くの近衛たちの命が失われたことが、どれだけディアーナを悲しませたことか。
 殺戮の宴の主催者たるエンガルフの狙いは、巫女レリィ、即ち自分だ。今さらながら、事態の深刻さに震えが来た。そう、あの残酷な《霊界の長子》であれば、何百人をもその手に掛けるだろう。何のために?―――愚問だ、ただ殺しを楽しむために。そしてそれをレリィに見せつけるために。
 思考は中断された。何者かが扉を開けたのだ。
 守備隊長シークェイン。この巫女の館に、戸を叩きもせずに入る者など他にいない。闇に慣れた目に映るのは、鎧と鎧下(ダブレット)を脱いだ、平時と同じく袖のない服を着た彼の姿。ずかずかと遠慮なしに部屋を横切って、レリィの寝台に腰かける。その決して軽くはない体重に、寝台が無駄な抵抗をするようにきしみを上げた。
 レリィは力なく身を起こす。夜の闇の中でもそれとわかる、よく晴れた青空の色をした瞳が、彼女をのぞき込んだ。
「大丈夫か」
「…会議は?」
「シュリアストが起きてからだ。おまえも具合悪そうだしな。…倒れたんだぞ、覚えてるか?」
 倒れた。それは把握できる。そして倒れたことをシークェインが知っている、という事は、彼が走って行く背中を見たのは現実だったという事だ。現(うつつ)と夢との境界線はひどく細く薄い。巫女たる彼女がこの地上と霊界との境を超える感覚を説明できないのと同じように。
「コウは…?」
 空色が翳(かげ)った。それを悟られまいとするかのように、シークェインは目を逸らす。
「死んだ」
 その一言が、重い冷たさを伴ってレリィの背筋に打ち込まれた。忘れていたはずの全身の震えが、ぶり返し始める。
「わ…たし……」
「ん?」
 シークェインはいぶかしげに視線を戻す。
 まばたきをすることを止めたレリィの目が、張り裂ける寸前まで見開かれていく。紫の両の瞳は、目の前の中空に不自然な焦点を結んでいる。
「わたしが…いけば……、だれも…あんなに……死ななかっ……」
「レリィ?」
「わ…たし……死ね…ば…」
「レリィ!」
 ただならぬものを感じ取って、シークェインがレリィの肩をつかむ。
「落ちつけ。おまえがいようがいまいが結果は変わらん」
「ちがう…ちがう……わたし…、」
 それ以上を言わせず、シークェインはレリィの上半身を抱き寄せた。両腕を細い背中に回して体を密着させる。
「落ちつけ、レリィ。おれの声がきこえるか?」
 シークェインの鎖骨に額をつける形になったレリィは、口を開けたまま、空気に溺(おぼ)れるように必死で呼吸を繰り返している。
「しっかりしろ。おまえはちゃんと生きるんだ。そう言っただろう」
「シー…クは…強いから……生きていける人だから……」
「おまえは違うってのか。うそつくな」
 背に回した腕に力を込める。
「今生きてるだろう。生きてるうちは生きてられるんだ。おまえもおれも同じだ。生きていけなかったらとっくに死んでる」
「ち…が……、だめ…わたし…、もう、いや…、もういやなの……」
 あえぎあえぎ、レリィは言葉を紡ぐ。
「みんな…死んでいく……わたしのせいで…ッ!」
「おまえのせいじゃない」
 しかしレリィは頭(かぶり)を振った。
「エンガルフが…あいつが、わたしを…」
「そうじゃない。人間、死ぬときは死ぬ。おまえのせいじゃない。おれだって、」
 シークェインの言葉が、不意に、レリィに語りかけるものではなくなった。天青色の目がすっと細められる。
「おれだって、明日には死んでるかもしれない」
 それは彼自身の思いのほかに深く響き、あたかもその場の時を止めたかに思えた。窓の外を吹きわたる夏の夜風すら、つかの間、梢(こずえ)を鳴らすのを止めた。
 ―――明日には、死んでるかもしれない。
 ―――コウと同じように。首を斬られて。
 ぞわり、と全身の毛が逆立つのをシークェインは感じた。恐怖が、そのけばけばしい刷毛(はけ)をもってして、両の太股から胴を通り首を通り頭の後側へとなぞる。それを感じながら、唇に浮かんだのは笑みだった。常に恐れと共に生じる、壮絶な笑み。彼をねじ伏せようとする強大な感情を克服し、生き延びるために、彼が自ら身につけた反射だ。
「…シーク?」
 その腕から開放されたレリィが、どう反応していいかわからない体(てい)で名を呼ぶ。シークェインは自分の顔をひとなでして、強(こわ)ばった笑みを消した。レリィの肩に手を伸ばす。
「来い。抱いてやる」
 その目は、その唇は、いつものように笑みをたたえてはいなかった。
 どうしたのかと問おうとして、レリィはそれが愚問であることを察した。肩を押さえる手の力が強い。顎をとらえたもう一方の手も。有無を言わせず唇を押しつけられ、上下の歯の隙間をこじ開けて舌が割り込んでくる。
 恐怖を感じなかったとは言えない。だがそれと同時に、直感がレリィの脳裏をよぎった。彼を動かしているのは、本能。生への渇望。
 唇が離れた隙に、レリィは両手を伸ばしてシークェインの頭を抱き寄せようとしたが、彼を動かすことはかなわず、自ら抱きつく形になった。
「シー…ク、」
 やや乱れた息を整えながら、シークェインの頭を抱え込む。
 「大丈夫だから」と言おうとして、ためらった。自分の言葉が、彼に対して、明日という未来に対して、何を保証するものでもないことを知っている。
「…ここに、いるから」
 彼女が口に出すことができたのは―――彼と彼女にとって今揺らぎようのないたったひとつの事実は、それだけだった。
 シークェインの表情は見えない。ただ彼の荒い呼吸を感じる。速い鼓動を感じる。ややしばらくして、彼の太い右腕が伸び、その大きな手がレリィの頭を包み込んだ。
「…すまん」
 レリィはただ首を横に振る。シークェインの軽い呼気を感じた。笑っている。
「おまえ…強くなったな」
「え?」
「強くなった」
 レリィの腕をほどいて顔を上げ、今度は両手でレリィの頬を包む。いつもの、むしろいつもよりも穏やかな、シークェインの笑み。我知らず、レリィは微笑み返した。
 シークェインはレリィから手を離し、寝台に深く腰掛け直して、かかとをすり合わせて靴を脱ぐと、寝台の上で両膝を抱え込んだ。
「あいつは言ったんだ。勝つっていうのは敵を倒すことじゃない、自分と、味方を一人でも多く生かして帰すことだ、って。…自分と、って言ったくせにな。どうせ味方を逃がすまで踏ん張ったんだろ。…ばかなやつだ」
 「あいつ」が誰を指すのかレリィにはわからなかったが、聞くうちにコウのことだと知れた。
「あいつは、知ったような口きいたり、おれの弱いとこ突いたり、人のこと利用したり、…気に食わないやつだと思ってた。でもな、」
 抱えた膝に顔をうずめる。
「いいやつだったんだ…」
 かける言葉が見つからず、レリィはただ耳を傾ける。ひざに顔をうずめた状態のまま、シークェインは首を動かしてレリィに目をやった。
「レリィ」
 ―――おれが死んだら、おまえを抱けない。おまえを守れない。おまえと一緒にいられない。
 喉奥がじりりと焦げるような錯覚を覚える。
 レリィは首を傾げ、わずかにのぞく天青色(セレストブルー)の目から彼の表情を読み取ろうとする。それを避けるように、彼は今度は逆側へと顔を逸らした。
「…らしくないぞ」
 独りごち、シークェインは笑う。それは自嘲とは異なる、純粋な気づきのもたらした笑いだった。
「こんなのは、おれらしくない」
 ひざを抱えていた腕を解き、寝台に背中から倒れる。彼の体重を受け止めた寝台がまたしても悲鳴を上げる。レリィに向かって手を差し出し、おずおずと延べられた手をつかんで引き寄せ、その細い体を自分の上に乗せる。彼女の心地よい重みと服の下の柔らかな肌を感じながら、シークェインは彼女の絹糸のような髪をなでた。
 あとどのくらいの間、こうしていられるのか。一日か、ひと月か。わずか一刻かも知れない。
「レリィ」
「…なに?」
「おまえは、おれのだ。だれにも渡さない」
「…うん…」
 レリィはうなずき、体をわずかに持ち上げて背を伸ばすと、今度は自分から唇を重ねた。

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