Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"命"
〜Lives〜

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 疲れきった体を寝台に投げ出し、レリィは大きな溜息をついた。途端、失念していた吐き気がこみ上げてくる。手の甲を口に当ててこらえた。幸い夕食前、吐き出すものは何もない。息を整え、目を閉じる。
 そんな彼女の様子を見ながら、寝台の端に腰掛けたシークェインが笑った。
「おまえ、人のこと考えてると自分のこときれいさっぱり忘れるんだな」
 城下で怪我人の手当てをしていた時には、レリィは苦しげなそぶりを見せなかった。その直前にはぐったりと寝台に沈んで動かなかったというのに、地震で飛び起きたと思えば、揺れが収まる前に走り出していた。
 今は返答も大儀といった様子のレリィを、シークェインは微笑を浮かべて見つめる。手を伸ばし、頭をそっとなでる。指の動きに従って、髪がさらさらと流れる。何時間でも飽きずに触り心地を楽しめそうだった。
 扉を叩く音がした。拍子(リズム)をつけて五回。レリィの髪を愛(め)でる手を止め、シークェインが出る。
「はぁーい。レリちゃんの体調は?」
 ヴァルトだ。
「よくない」
「昼は食べた?」
「食ってた。ちょっとだけどな」
「らじゃ。晩に会議あるから出れそうならヨロシク」
 こめかみに指を立てつつ踵(きびす)を返したヴァルトを、シークェインは呼び止める。
「気づいてるんだろ。レリィのこと」
 言いながら扉から滑り出、後ろ手で閉める。ヴァルトは爪先を軸にくるりと身を返した。
「何を?」
「最近ずっと具合悪い。吐いてばっかりいる。あいつ、」
 声を潜める。
「あいつ、子どもが……できてるんだろ」
 問いの予想はとうにできていたのだろう、ヴァルトは何ら抵抗を見せるでもなく答える。
「そうね」
 シークェインは、彼としたことが、どんな表情をしたものか激しく迷った。唇を引き結んで顔の緩みを隠しつつも、奥歯で喜びを噛みしめる。彼はそのまましばらくこらえていたが、それをやめた。目を細め、白い歯を見せ、満面に笑みを浮かべる。
「おれの……、おれとレリィの…子どもか」
「うん」
「ははっ…、子どもか…。おれの……」
 不意にヴァルトの視線に気づいたように、シークェインは自らの右頬を引っ張り、軽く打つ。
「おれが父親なんて、おかしいか」
「んーん」
 ヴァルトはシークェインの背をぽんぽんと叩く。
「ま、そゆコトだから側にいておあげなさい」
 シークェインの顔から、笑みに属するものが引いた。
「コウの仇、とったらな」
 ヴァルトの漆黒の瞳が彼を見上げる。
「出る気?」
「ああ。もし《七星の王》でエンガルフをしとめられなかったら、最初からなにもしてないのと同じだ。あいつはおれをねらってくる。だからおれが出る」
「あんまり気合い入れずにおとなしくしてなさいな。さもないと、」
 ヴァルトは人差し指を口元に立てる。
「お前の命、オレがもらうコトになりますよ」
 シークェインはその言葉を無表情に受け止め、次いで、
「やらん」
 不敵な笑みで押し返した。
「言っただろ。おれはやっと、始まったんだ。レリィのことも、シュリアストのことも」
 回廊の天井を見上げる。夕闇に、柱に仕込まれた魔光灯の明かりが差し始めていた。 
「おれは、生き残る。…生き残ってやる。何を犠牲にしても、絶対に」
「……そう」
 双眸(そうぼう)を閉ざし、ヴァルトは今度こそ彼に背を向けて歩き出した。からかいもなければ、鼓舞もない。ヴァルトらしからぬ静かな退場に、シークェインは首を傾げる。だがそれも短い時間だった。こみ上げる喜びに耐えかね、小躍りに館に戻る。
「レリィ」
 寝台の上に寝そべっているレリィ。シークェインはその横に身を投げ出す。軋みで重量過多を訴える寝台をよそに、レリィの肩をつかんで自分の方を向かせ、抱きしめる。
「な…、なに? 急に…」
「レリィ。おまえは、おれの―――」
 弟の命の恩人だった。対レキア戦では戦友と言えた。徹底的に避けられたこともあれば、いつからか愛され、恋人になった。そして、これから生まれてくる子どもの母親だ。
「おれの……なんなんだ?」
「は?」
「まあいいか」
 髪に、瞼(まぶた)に、頬に、口づける。レリィはシークェインの豹変に驚きつつ、くすぐったげに首をよじる。心ゆくまで接吻の雨を降らせて、シークェインはようやくレリィを解放した。横になったまま、先刻までそうしていたように、彼女の絹糸のような髪を指先でもてあそぶ。
 ―――女の子だったらきっと、大きくなったらおまえにそっくりのこんな髪だ。
「…死ねないな」
 わずかに笑みを浮かべるシークェイン。レリィが不安げに身じろぎする。
「どうしたの、シーク…なんか、変……」
「おれは死なん」
 体を起こし、寝台の上に胡座(あぐら)をかいてレリィに向き直る。
「おれは死なん。悪運は強いんだ」
 問いに答えていないことをわかっていながら、押し通す。そうすることで、自らの運命もまた望むままに変えられるかのように。
 ―――いや。わかってる。
 ―――本当はおれだって、死ぬときは死ぬ。
 死んだ者は皆、死ぬはずのない者だった。戦いがなければ、事故がなければ、病気がなければ、寿命がなければ。
 死ぬ時は死ぬ。せめてその時に、振り向いた人生に悔いのないように。それが、自分の生のありかただと、彼は決めた。
 ―――そうだ。死ぬときは死ぬ。
 ―――だがそれは、今じゃなくてもいいはずだ。
 宙を焼き焦がすかのような強い眼差し。幅広い肩をゆっくりと上下させる呼吸。
 ひどく落ち着いていた。死というものが仮に目の前にあれば、彼は今この瞬間にはそれを受け止め、凌駕(りょうが)しただろう。
 レリィは彼の醸(かも)す名状しがたい雰囲気に気圧(けお)されてはいたが、彼の意志を汲(く)んだかのように、身を起こしてそっと寄り添った。いつもひんやりと少しだけ冷たいその体を片腕で抱き寄せ、もはや一つではないはずの鼓動を感じながら、シークェインは長いこと、目に見えず音にも聞こえぬ何かと向き合っていた。

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