"夏の化身"
〜in Midsummer Day〜

『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか』企画に提出したもの
 (色つきの部分が書き出し)

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
 よく日に焼けた巨躯。こちらに気づいて、男はニカッと笑った。いつ見ても歯並びのいい白い歯だ。その笑みが、細められた目が、腰に手を当てた仁王立ちの姿勢が、全身が、待ってたぞ、と主張している。観念せざるを得ない。
「…今日は、どこに連れてきたいわけ?」
「察しいいな。泳ぎに行くぞ」
「は?! 馬で何日かかると思って…」
「あほう、海じゃなくてもあるだろ」
 こうして、男の胸に背を預けて馬に揺られながら、森の中にある―――と男が言う―――泉を目指して進んでいる。
 夏虫の声が途切れる隙はない。頭上に生い茂る枝葉を、少々おおざっぱにどかしながら、男は馬を歩ませる。跳ねた小枝が頭に当たるのを気にしながら、彼女は素朴な疑問を口にする。
「ねえ。なんで毎日そんなに連れ出したいわけ?」
「おまえがあんまりにも、あれだ、なんにも知らないからだ」
 男が斜め横から覗き込む。
「今日だって、どこにも行かないつもりだったんだろ?」
「そういう、わけじゃ…」
 天青色の瞳に見つめられ、顔を背けて口ごもる。
 先刻、外へ出てみようかと考えたのは。そこからしばらく逡巡したのは。
 外に出てみるのも悪くはないと思ったから。彼が待っているのではないかと期待し、待っていないのではないかと怯えたから。
 ―――言えるはずもない。
「見えたぞ」
 森が開けた。傾きかけた陽光に、波頭を白くきらめかせる水面。全身をじっとりと湿らせていたはずの汗が、水面を渡る風にさらされ引いていく。近づくにつれ、驚くほど透明度が高いことがわかる。馬の蹄に驚いた小魚たちが、再び寄り集まってくる。
 馬を降りて彼女の手を取ろうとした男に、ふと告げる。
「っていうか、わたし、泳げないんだけど」
 手を差し伸べたまま、男は数秒間、固まった。
「あほう! 先に言え!」
「なんでわかんないのよ! 私ほとんど外出たことないの知ってるでしょ!?」
 彼女は気づかない。ここまで素直に感情を見せられるようになった自分に。
 山あいの夏は、やがて千の彩に染められ、長い冬に封じ込められる。夏の化身のようなこの男が、季節と共に去ってしまわないことを、彼女は密かに祈る。

End.

<< 前へ   次へ >>
▽ Recycle へ戻る ▽