Radwair Chronicle "冷たい風の中で"
〜in the Chill Wind〜
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 文官棟二階。足を踏み入れるのは初めてだが、迷う構造ではなかった。上着を身に着けたコウは、まっすぐに廊下を歩いていく。
 ローウェルの言ったとおり、一番奥の扉には、他と違って豪奢な装飾が施されている。文官長グラシルの部屋だ。
 緊張を唾と共に飲み下して、手を持ち上げる。扉を軽く叩いたが、弱すぎて音がしない。少し力を込めて叩くと、今度は思いのほか大きな響きを残した。飲み下したはずの緊張がせりあがってくる。
 反応を待つ。一呼吸。二呼吸。そして、気づいた。
 留守だ。溜息と共に、緊張が体内から抜けていった。
 さて、ローウェルには何と言うか。思案をめぐらせつつきびすを返したその前を、大きな影がさえぎった。反射的に顔を跳ね上げる。
「わしに用事か」
 部屋の主が、そこにいた。
 堂々たる体躯に、いかめしい顔。口とあごには髭をたくわえている。
「こッ…」
 どこかへ抜けていったはずの緊張が、瞬時にして舞い戻ってコウの首を締め上げた。
「こ、近衛長から、これを、預かりました」
 かろうじて口と手は動いた。グラシルは、差し出された書類を受け取り、一瞥する。
「今年入った近衛か?」
 問われているのが自分の事だと、コウが気づくまでには数秒を要した。
「いえ、まだ、見習いです」
「名は何という」
「コウ・クレイドです」
「クレイド…」
 その姓に思い当たるものがあったらしい。グラシルは書類から目を外して、真っ直ぐにコウを見た。
「オーバル・クレイドの息子か?」
「は、い」
 予想外の問いだった。返事と同時に首肯してしまい、声が潰れる。
 グラシルはしばしコウを見つめていたが、やがて、
「リート、先に戻っておれ」
「はい、父上」
 よく通る声が耳に入って、初めてコウはグラシルの背後にいた人物に気づいた。年の頃は同じくらいか、少し上か。物腰の柔らかな少年だ。
 少年が身をひるがえすと同時に、グラシルはコウに言った。
「入っていけ」
 
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