Radwair Chronicle "冷たい風の中で"
〜in the Chill Wind〜
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「歳はいくつになる」
「十六です」
「そうか」
 沈黙。
「オーバルは息災か」
「一昨年…亡くなりました」
「そうか」
 沈黙。
 グラシルの部屋は、派手ではないが、隅々まで重厚なしつらえだった。調度品の一つ一つが、かなりの高級品ぞろいと見える。だが余分なものは一切ない。
 来客用のソファーに浅く腰掛けたコウは、自分の貧相なズボンがひどく気になった。縫い目のほつれはローウェルの上着で隠れて見えないが、幾度となく繰り返した水洗いで色あせてよれた布質までを隠すことはできない。
 グラシルは机の上の書類に目を通しながら、めくっては戻し、めくっては戻しを繰り返している。
 堅い沈黙に耐え切れず、コウは思い切って声を出して尋ねた。
「父を、ご存知なのですか?」
 グラシルの手が止まる。
「顔見知りだ。市井(しせい)に降りたとは聞いたが。…して、コウ」
 名を呼ばれ、緊張が肺を駆け巡る。
「なぜ剣の道を選ぶ? オーバルの息子であれば、文官の才もあろうに」
「…それは……」
 見たくなかったからだ。
 育ての父オーバルを破滅に追い込み、名も知らぬ実の父に妻と子を―――母と自分とを捨てさせた、濁った世界に触れたくはなかったからだ。
 確固たる思いは、しかし、口から出る際には、彼自身にも意外なほど巧妙に形を変えた。
「父とは別の道を歩みたかったので」
「そうか」
 また、沈黙。
「だが、つてがなければ近衛としての出世は難しかろう。なぜあえて、守備隊ではなく近衛を選ぶ?」
「…………」
 今度の沈黙は、長かった。
 何も答えずともよかったのだ。コウ自身がそう悟ったのは、数年を経た後の事だ。
 今悟れなかったのは、若いからに他ならない。乾いた唇からもれた声は、心もち低かった。
「会いたい人が、」
 ―――俺を捨てた父が。
「城の中にいるので」
 ―――権力のために、俺と母とを捨て、育ての父オーバルを失脚させた男が。
 身の内にある復讐のくすぶりに気をとられていたコウは、グラシルの厳しい眼差しに気づかなかった。
「コウよ」
 不意に名を呼ばれ、慌てて顔を上げる。
「はい」
「今のお前では、近衛は務まらん」
 驚いた。
 なぜ、近衛が務まらないのか。
 なぜ、グラシルがそれを言うのか。
 なぜ。
 問いは錯綜し、言葉としてまとまらなかった。グラシルは淡々と続ける。
「近衛とは、命に代えても女王陛下を守らんとする盾。今のお前にその心構えはあるのか」
 厳格な目で正面から見据えられ、頭の内側を打つ激しい脈拍を感じながら、コウは、ただ、視線を落とした。
 その日の残りをどう過ごしたかは、覚えていない。
 
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