Radwair Chronicle |
"わずらいの兆(きざ)し" 〜the Beginning of the Loop〜 |
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木の葉の乱舞が収まるのを待たずに、シュリアストは青年を馬から引き降ろす。 「意識がない、頼む」 「わかってる」 落ち着き払って、レリィは服を結い止めた紐を解き始める。ここからは彼女の領域だ。 紐を全て取り払うと、落とした裾は足先まで完全に覆い隠す。右手の杖を地面に立て、レリィはひざをついた。 青年の左手を取り、まぶたを閉じる。その手から伝わる生気を頼りに、彼女の精神は“狭間”へ、そして“狭間”を超えて霊界へと、落ちていくのだ。 身に慣れた圧迫感から開放され、目を開ければそこは上も下もない闇の支配する世界。 霊界の唯一の異分子である彼女を嗅ぎつけて、上層の魔物たちが群がってくる。さながら、水面を泳ぐ水鳥を感知した肉食魚のように。 それらの姿を確かめるまでもなく、レリィは長柄の武器に形を変えた杖の一閃で、数匹を消し飛ばした。残りに目もくれずに、左手からのびる細い光の糸をたどって、より深くへと潜る。 闇の圧力が増していく。訓練を受けずに降りたならば、巫女の血筋といえども発狂を免れない、濃厚な闇とその中の孤独。だがそれさえも、彼女には心地よいのだ。稀代の巫女と称され、十になる前から杖を握った彼女には。移ろいやすい情に支配された地上に比べれば、この霊界は何と静かで安らかなことだろう。 だが安息に浸っている暇はない。彼女自身は魔物に指一本触れられることがなくとも、犠牲者の魂は無防備だからだ。それを魔物に食らわれるより先に見つけ出し、地上に帰す。それこそが、巫女の本来の仕事だ。 糸を手繰(たぐ)って闇を泳ぎ、ゆっくりと落下を続ける魂のもとにたどり着く。手を伸ばそうとして、レリィは凍りついた。 ただならぬ気配が魂を包んでいる。魂が、すでに何者かの手の中にある。 その何者かが、徐々に実体化した。 「二度目だな、レリィ・ファルスフォーン。三度目と言ってもいいが」 忘れようのない低い声に、忘れたはずの戦慄が体の芯を駆け上がった。彼女の闇の平安を、彼女の霊界の安息を、ただ一人乱す傲慢なる支配者。 闇にたなびく亜麻色の髪と、血の色の紋の描かれた整った顔。彼はかつて自らこう名乗った。“霊界の長子”と。 「…エンガルフ…」 噛みしめる歯の奥でレリィは呟く。呟いてから、はっとした。 「兵士の体を乗っ取ったのは、お前なの?」 「クックック…。だとしたら、どうする。私と戦うか?」 楽しげな笑いだった。心底楽しんでいる。レリィはぞっとした。 「興味はあるぞ、この一年でどれほど強くなったか。だが、まだまだ及ばぬな」 顎に触れようと伸ばしてきた手を、レリィは過敏にかわす。エンガルフの目が細まった。 「ほう、恐怖か? 私に? クックック…それは困るな、私の花嫁」 「だれが……あんたなんか…!」 「抗っても無駄だ。言ったはずだな、あと三度だ。三度目に会った時、お前は私のものになる。……どうした、震えているぞ」 言い返すだけの気概も、ない。そんなレリィの様子を楽しみながら、エンガルフは手の中の魂をもてあそぶ。 「どうした。これを取り返しに来たのではなかったのか?」 レリィは動かない。動けない。一年前に与えられた激痛が、植え付けられた恐怖が、よみがえって体を闇に縫いつける。 「どうした、ラドウェアの巫女。使命ではないのか? 私と戦うか、はたまた交渉するか」 全身の震えは御しがたいほどに強まり、もはやレリィは、地上であれば立っている事もかなわぬであろう状態だった。エンガルフは恍惚にも似た笑みを浮かべ、レリィの顔を覗き込む。 「戦えまい、その様子ではな。では巫女よ、私との交渉を望むか? それとも、この魂を諦めるか?」 「………ない…」 ガチガチとかみ合う歯を必死に食いしばって、レリィは声を絞り出した。 「諦めない……!」 エンガルフは再び、今度は明らかに満足げに目を細める。 「いいだろう。では支払ってもらわねばな、相応の贄(にえ)を。そう難しい物は求めまいよ。私はお前を…ククッ、気に入っているからな。どれ…」 エンガルフの左眼が金色に輝き、瞳孔が蛇のように絞られた。ぎょっとしてレリィは後ずさろうとするが、震える手足は夢の中のもののように闇を掻くばかりだ。 やがて、エンガルフの瞳は輝きを止めた。 「丁度いい。明日、お前のもとに小さな魂がもたらされる。それを私にささげてもらおう」 「どう…やって…?」 「生贄の儀式など慣れたものだろう、巫女よ。くびり殺すのだ、お前の手でな」 「…………」 「安いものではないか、人一人の命に比べれば。違うか?」 「…………」 「嫌なら、私が今この魂を―――」 「わかったわ」 早口でさえぎり、レリィは手を突き出した。 「贄の件は了解しました。エンガルフ、その者の魂を、わたし、龍の翼の巫女レリィ・ファルスフォーンに渡しなさい」 「クックックッ。聞き分けのよさに免じて返してやりたい所だが、約束が果たされるまでこれは預からせてもらわねばな」 エンガルフは光る球を長い舌でなぞってから、レリィの目から隠す。 「時限は明日の日没まで。それを過ぎれば魔物の餌だ。いつでも飢えているのだからな、私の可愛い下僕(しもべ)たちは」 「必ず…返してくれるのでしょうね」 「必ずだ、レリィ・ファルスフォーン。お前が贄を出すのを忘れぬ限りはな」 レリィは相手を睨みつけた。睨みつけるしかできなかった。じりじりと、じりじりと後退し、十分に距離をとった所で体をひるがえす。 撤退。屈辱ではあった。だが他に手はない。何よりも恐怖が、その場にとどまる事を許さなかった。何度か後ろを振り向き、溺れる者さながらにもがきながら水面を目指す。 |
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