Radwair Cycle
-BALLADRY-
“失われた記憶”
〜Lost Memories〜
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 部屋に一人取り残されて、レリィはゆっくりと寝台に倒れこんだ。
 ―――遊ぶって、どうするんだっけ……。
 幼い頃、よくディアーナと遊んだ。中庭で、城の中で。楽しかった、のだろう。覚えていない。過去の記憶から、楽しかったことだけが抜け落ちたかのように思い出せない。まぶたを閉ざす。
 ―――どうしてこんなふうになってしまったんだろう。
 その気になれば、理由はいくらでも挙げられるだろう。だが彼女はそれを必死に拒絶した。拒絶してもなお、記憶は次々に脳裏をよぎる。
 小さな子供を疫病で失った父親の怒声、それをなだめながらも悲しみを隠せない母親。母の亡骸の前で泣きながらレリィを罵倒する幼い兄弟。恋人を死に奪われ茫然とする娘。
 治療の失敗を、患者の死を目の当たりにするのを恐れたレリィの動きは、霊界でもひどくぎこちなくなり、ますます犠牲者を増やした。そればかりか彼女自身を何度も危うくもした。
 そしてエンガルフ―――そう、エンガルフ。彼女の身に消えない恐怖を打ちつけた者。それらを恐れるあまり、レリィは霊界の深くまで潜ることができなくなり、やがては杖すら持てなくなった。こうしている間にも、誰かが死を迎えようとしているのに。
 ―――わたしのせいだ。
 横倒れのままの頬を涙が伝う。手の甲でぬぐう。鼻をすする。また涙が伝う。
「また泣いてるのか!」
 二つの杯を手にしたシークェインが、半ばあきれ顔で部屋に入ってきた。寝台のレリィの目の前に、片方の杯を突きつける。柑橘の果汁だ。
「…いらない」
「飲んどけ」
 有無を言わせない。レリィは鼻をすすりながらも、緩慢に身を起こし、杯を両の手で持って、果汁に口をつけた。シークェインは満足げに笑むと、自分の麦酒を一気に半分ほど飲んだ。それを寝台の脇の台に置き、
「ちょっと待ってろ」
 大きな足音を立てて、もう一度下へ駆け降りる。同じく大きな足音を立てて戻ってきた時には、桃のシロップづけの入った器を手にしていた。ぎしりと寝台を軋ませて、再びレリィの隣に腰を下ろす。フォークで桃を適当に細かくし、一切れ刺して、彼女の口の前に持っていく。
「ほら、あーんしろ、あーん」
 レリィが戸惑っていると、
「早くしろ、汁がたれる」
 やむなくレリィは口を開けた。口中に入れられた桃を、ゆっくりと噛みしめる。シロップか果汁かわからないが、ひと噛みするごとに甘い液体が口の中を満たす。
「うまいか?」
「…わかんない…」
「……まあいいか。次」
「あ、自分で食べるから…」
 フォークと器を受け取って、一切れごとに、苦しげな溜息をつきながら口に運ぶ。それを横目に、シークェインは残りの麦酒を一気に飲み干した。
 最後の一切れを飲み下し、レリィはフォークを置く。そして、最後とはならないであろう溜息が、彼女の口から漏れた。
「……シークは」
「ん?」
「自分が楽しかった時のこと、覚えてる?」
 その問いに彼はいぶかしげな表情をしたが、深く問い詰めずに数え上げる。
「こないだ近衛にまじって庭で焼肉しただろ、それからヴァルトと賭けして勝ったことだろ、あと二人でシュリアストひっかけたことだろ、」
「小さい時のことは…?」
「海ぎわだったから、よく泳いだり魚とったりしたな。近くの家に兄弟がいてよく遊んだ」
「…そう…」
「で、なんだ?」
 シークェインが切り込む。三つほど数えたところでレリィは口を開いた
「わたし、つらいことしか覚えてないの……楽しかったことが思い出せない……」
「忘れろ」
 シークェインはレリィの肩を抱き寄せた。
「今から作ればいいだろ、楽しいこと」
「楽しいことって、なに…?」
 レリィの瞳は悲しみに煙っている。シークェインは何を言われたかと口の中で反芻した。―――『楽しいことって、なに…?』
「おれと一緒にいて、楽しくないか?」
「……わからない……」
 シークェインの眉が寄った。
「おれのこと、きらいか?」
「…………」
 レリィは唇だけを動かしては止め、浅い呼吸を繰り返した。
「……わからない……」
 消え入りそうな声だった。シークェインは彼女の頭を抱き寄せる。抱き寄せられた姿勢のまま、彼女は何度か口を開こうとしては躊躇し、弱々しく頭を振り、溜息をつく。シークェインは半ば苛立ちながらも、その苛立ちこそが彼女を行き止まりに追いやった事を思い、根気よく待った。
 ようやく、レリィは口から声を出す決心をした。
「わたしの両親ね。自殺したの」
 シークェインの眉が跳ね上がった。
 ―――『巫女殿の記憶にはなかろうが、』
 魔導長ティグレインの言葉がよみがえる。
 ―――『巫女殿のごく幼い頃に両親は心中している。姉君もまた、先代ユハリーエ女王陛下の治療にあたって命を落とした。天涯孤独の身だ』
 孤独。そうだ、彼女を支配し、さいなんでいるのは、孤独と絶望と罪悪感。
 ―――『恐らく巫女殿は、眠らせていた記憶から知ってしまったのだ。この世の苦しみから逃れる手段としての、死を』
 目を落としたままのレリィが、呟くように言った。
「コウの所にいた時わかった……親はどれだけ子供を大事に思うか。でもわたしは、」
 膝の上、握り締めた両手に力がこもる。
「わたしの両親は、わたしを見捨てたんだ。わたしなんて、巫女でなければ誰もいらないのに……なのに……わたし…」
 歯を食いしばって全身の震えに耐えている。だが程なくせき切った。
「わたしは一番愛してくれるはずの人たちに見捨てられたんだ!」
 血を吐くような叫び。それは彼女自身を引き裂かんばかりだった。きっ、とシークェインを睨みつける。
「あなただってわたしを見捨てるんだ!」
「見捨てない」
「うそつき! わたしのことなんか何も考えてないくせに!」
「何も考えてないなら服なんか買うわけないだろ」
「わたしのためじゃないでしょう!? あなたが買いたいから買ったんでしょう!?」
 シークェインは口ごもった。レリィは自らワンピースの胸元に手をかけ、引き破ろうとする。すぐさまシークェインは彼女の手を押さえつける。
「なにする!」
「お人形ごっこなら一人でやってよ! わたしは生きてる人間なのよ!!」
「じゃあおまえはおれのこと何だと思ってるんだ!」
 怒号が口をついて出た。レリィは一瞬目を見開き、次いでゆっくりとゆがんだ微笑を浮かべた。
「…ほら……やっぱりわたしは死んだ方がいいんだ……」
「なんでそうなる!」
 シークェインはワンピースからレリィの手を引き離した。両肩をつかんで揺さぶる。
「死ぬとか言うな! おれの前で二度と言うな!!」
「わたしが死ぬのはわたしの勝手でしょう!?」
「勝手に死ぬな!!」
「離せ! 触るな!!」
 声の枯れんばかりにレリィはわめいた。突然の暴言に、シークェインは唖然とする。叫びながらレリィは泣いていた。
「だまれ、偽善者! だまッ…」
 深い悩みを打ち明けようと開きかけた口は、いつも「忙しい」の一言のもとに退けられた。都合のいい時に体を求めに来ては、情事が終わればすぐさま眠りに落ちる。朝目覚めても、大した会話もなく帰って行く。彼女が毒を飲むまで、シークェインはレリィに対してそんな男だった。
 ゆえに苦悩の全てをレリィは独り抱え込んだ。軋み始めた歯車が、圧力に耐え切れず砕け散るのは時間の問題だった。
「おまえさえいなければ、おまえさえいなければッ! わたしはこんな風にならなかったんだ! わたしは……みんなを……救えたんだッ……!!」
 レリィの力が抜けていく。その直前の一瞬、強烈な眼光に射抜かれて、シークェインは動くことが出来なかった。
 ―――『おまえさえいなければ、わたしはこんな風にならなかったんだ!』
「そう…か」
 頭の中の空白を、冷たい風が吹き抜けてゆくような感覚に襲われた。
「おれの……せいか」
「違う」
 今度はひどくおびえた様子で、レリィは必死に取り繕った。
「わたしが悪いの。期待しすぎてたわたしがいけないの。わたし生きてる資格ない、だから、だから死ねばよかったのに」
「死ぬとか言うな」
 シークェインは彼女の両腕を強引に引いて立たせ、抱き寄せた。突然のことに、レリィは激しく身じろぎする。
「おれがいるのに勝手に死ぬな。…死なせてたまるか」
 抱きしめる腕に、ただ力を込める。
「レリィ、おれから逃げるな」
 レリィは必死で抵抗したが、その動作が微細なものにしか見えないほど、シークェインは強く彼女を抱きすくめていた。
「……放して」
「放さん」
「…放してよ…」
 レリィの声に涙が混じった。ひくつく咽の音、鼻をすする音がする。
「同情なんか…すぐ飽きるだけでしょ…」
「同情じゃない」
 シークェインは片手をレリィの頭に回した。密着感がさらに高まる。だがレリィの心の中に波打つものはなかった。
 ―――ああ、この人は本当にわたしのことを好きなのかもしれない。
 長いまつげが伏せられる。溜まっていた涙がひと粒こぼれ落ちた。
 ―――可哀相に。
「どうすればわかる?」
「え?」
 突然の問いに、レリィは何を答えていいのかわからない。
「おれに、どうしてほしい?」
 抱きしめられたまま、レリィは視線を流す。
「見捨てれば…いいのよ」
「もういっぺん言ってみろ」
「…………」
 首元に当たるレリィの頬に、ひとつふたつ伝う涙をシークェインは感じた。
「わたしを、」
「ん」
「…見捨て……いで……」
 溺れかけた者のように、レリィは引きつったような呼吸を繰り返す。シークェインはさらに強くレリィを抱きしめた。
 自分は見捨てられている、巫女だから生かされているだけ―――彼女はそう思い続けていたのだ。今までの言葉の断片をかき集め、おぼろげながらもシークェインにはそれがわかった。少しでも背を向ければ、捨てられたと恐れ、心を閉ざす。それが彼女の、レリィの自ら作り上げた、幾重の壁の氷の城だった。
「助けてやる」
「……え?」
「でもおれだけじゃだめだ。おまえの力もいる」
 ようやく体を離して、シークェインは真正面からレリィを見た。
「レリィ。おれから離れるな。なにがあっても離れるな。…いいな?」
 ゆっくりと、徐々に、レリィは頭を垂れた。

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