Radwair Cycle
-NARRATIVE-
不安"
〜an Anxiety〜

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 ヴァルトが姿を消したことで、明かりが消えたように部屋は静けさに満たされた。誰もが視線を落としている。あたかも全てのものが動くことを禁じられたかのように。
 その呪縛を破って、シークェインが立ち上がった。
「寝る」
 一言落として、大股で部屋を出て行く。やや乱暴に閉められる扉。そしてまた、無言の刻。
「大丈夫だよ」
 誰にともなく、あるいは自分自身にか、コウは言い聞かせた。
「ディルティン様はきっと生きてる」
 挙げた名は、リタ当主にしてディアーナの従兄(いとこ)、そして表向き、彼女の婚約者。
「……そうだね」
 ディアーナの呟きは、コウの言葉に慰められたというよりも、そう言わなければこの場の重い空気がわずかなりとも緩まないことを知ってのものと思われた。
 「表向き」であることが嘘のように、二人の間柄はむつまじかった。実際、ディアーナはディルティンを深く信頼している。それこそ、シュリアストが穏やかでいられないほどにだ。そのシュリアストとて、統治者として、あるいは策士としてのディルティンには、一目置かざるを得ない。だからこそなおのこと、穏やかではいられない。
 だが今シュリアストには、ただただ沈痛な顔でうつむくディアーナにかける言葉がないと見えた。ディアーナが案じているのは、彼女自身の身ではない。ディルティン・マイヤー・リティシアルという一人の人間だ。その感情に彼が入り込む隙はない。
「……大丈夫」
 コウがつい先ほど口にした言葉を、今度はディアーナが口にした。
「あの人は《女王の騎士》だから」
 ディルティンはリタ白騎士団の長でもある。だが《騎士》という単語には、それとはまた違う、ラドウェア特有の意味合いがあった。
「―――《女王》と《騎士》と《巫女》。これらは切っても切られぬ関係にあります」
 一昨年の秋のことだ。紅葉を舞い散らせる冷ややかな風の中、シュリアストを連れてリタ城下を案内していたディルティンは、そう言って足を止めた。
「騎士は物理的に、巫女は非物理的に女王を守る盾。そして面白いことに、巫女は血で受け継がれ、騎士は魂で受け継がれる」
 穏やかな物腰は、この世に生まれ落ちてから悪意ひとつ持ったことすらないかのようだ。ディルティンはきびすを返してシュリアストと向き合う。
「もし私が死ねば、必ず他の誰かに騎士の魂は移されるのです」
 ディアーナによく似た面差しながら、龍の血を引くラドウェア女王が代々琥珀色(アンバー)の瞳であるのに対し、ディルティンの瞳は鮮やかな緑だ。
 シュリアストが問う。
「なぜ、俺にそんな話を?」
「話しても良いと思えたから…では答えになりませんね」
 微笑。いかにも貴族らしい優雅な身振りで、肩に落ちた落ち葉をつまむ。ひらり、と葉はその白い指から落ちた。そして彼は、頭一つ分高いシュリアストを見つめやり、告げる。
「私の従妹(いとこ)殿を―――ディアーナを、頼みますよ」
 心なしか青ざめた顔のシュリアストに、コウが声をかけようとしたその時、ディアーナが顔を上げた。
「私も、休むね。おやすみなさい」
 コウは不意を衝(つ)かれたふうだったが、すぐさま微笑(ほほえ)む。
「ええ、お休みなさい」
 ディアーナを通した扉が音もなく閉められる。二人はその閉ざされた扉を、ただ見つめている。
 やがて、コウが重い口を開いた。
「心しておかなければならない事が、ひとつある」
「わかってる。リタからの援軍はない」
「…そうだ」
 コウはシュリアストに目を移した。
「この城ひとつでどこまで戦えるかはわからんが……やるだけの事をやるしかない」
「兵糧は」
「一年分の備蓄がある。冬までに退いてくれればいいが…」
 疲れも知らぬ様子で包囲を続ける兵士たちが、果たして雪や寒さを理由に撤退するだろうか。希望的観測はできなかった。
 窓からの生ぬるい微風が、松明の明かりとシュリアストの長い前髪を揺らす。木々のざわめきが忍び込んでくる。
「ディアーナは守る」
 己に刻みつけるように、シュリアストは呟く。
「命に代えても」
「そんな事を言うもんじゃない」
 コウが聞きとがめる。
「皆で生きる方法を考えるんだ。それが人の上に立つ者のあり方だよ」
 シュリアストはうなずかなかった。


◇  ◆  ◇


 魔導師の塔、最上階。ティグレインの部屋だ。背中を押されるままヴァルトに連れて来られたシャンクは、机の上に広げられたエアヴァシー城の図面の写しを目にすると、指示されるでもなく、迷いのない筆遣いで線を書き加えていった。
「こんな感じでしたね」
 筆を置いたシャンクの後ろから、カッシュが首を伸ばして覗き込む。
「ひでえな」
「城壁のひびは大小合わせて十六ヶ所。進入箇所は特定できない……というか、全ての箇所に戦いの形跡がありました」
「あー、全面から突入食らった感じ?」
「そう……ありえますよね。今のラドウェアを見た限りじゃ」
 大城砦エアヴァシーに全面から突入をかけるだけの兵力。大陸全土から兵を集めでもしない限り、成し得るものではない。しかしそれは、まさに今このラドウェアで彼らが目にした光景ではないか。
「ふぅん」
 ヴァルトは座っていた椅子を傾ける。
「どーよティグ。この規模の魔法つったら」
 意見を求められ、いつもの席についていたティグレインは緩慢に肩をゆする。
「並の魔法でエアヴァシーの城壁を傷つける事は叶わぬ。増して全方向からはな。あれを崩す唯一の手段は、地震。となれば、」
 灰色の瞳が宙の一点を見つめた。
「詠唱系最上級魔法、《崩落の饗宴》」
「やっぱり?」
 ヴァルトは顔の右半分だけで微妙な笑みを形作った。息を飲むモリン。いつもは威勢のいいカッシュも押し黙っている。一人取り残された感のあるシャンクが、事態に薄々気づきながらもあえて問った。
「最上級魔法……?」
「シェードと昔のアリエンとオレ」
 突然上がった三人の名に、当のヴァルトとティグレイン以外の面々に疑問の表情が浮かぶ。三本の指を折ったヴァルトが、その指を見ながら言い放つ。
「ラドウェアで、詠唱系最上級使えるだけの魔力と解放力のある人」
 いくら魔力があったとて、十分な解放力がなければ魔法は発動しない。魔力が水瓶の中の水の量だとすれば、解放力は瓶の口の広さだ。詠唱系、ことに最上級魔法ともなれば、強大な魔力とそれに見合った解放力を必要とされる。
 《宵闇の魔導師》シェード、そして若かりし頃のアリエンは、いずれもラドウェア魔導長を勤めた。シェードは十数年前にラドウェアを去ったが、常に目立ちすぎるほどに目立ってきた彼がその後一切の消息も知れず、また彼の契約してきたおびただしい数の精霊や魔物、そしてそれらとの契約の代償を思えば、既に命を落としたものと思って間違いはない。
 アリエンが魔導長の座を退いたのは、子供を産めば魔力が大きく減退するためだ。今は近衛長コウの妻として、三人の子供の養育に追われている。
「じゃあ、今現在ヴァルトさんだけじゃないですか」
「魔導師団ではね」
 ヴァルトのその物言いは、シャンクの耳から頭に達するまでの間に小さな引っ掛かりを生じさせたが、それは立ち上がったティグレインに注意を向けたことでかき消された。
「しかし、この魔法を使う程の術師が相手とは、魔導師団全力を以(も)ってしても、難しい戦いに成るやも知れぬ」
「敵がそれだけの魔法を使って魔力を失った今が機会、という可能性は?」
 シャンクの問い―――とはいえこれは先刻のヴァルトの受け売りだが―――に、ティグレインはわずかに口角を上げた。それが出来の良い生徒に対して見せる言葉なき賞賛である事をシャンクは知らない。そして知る間も与えず、ティグレインは無表情に戻る。
「手練(てだ)れの魔導師は、魔力が回復するまでの何らかの時間稼ぎを必ず用意している。殊(こと)に今回の相手は計画的にして周到。手を打って有るのは当然と考えるべきであろう」
「それがあの兵士…」
「だけならいいんだけどねー」
 言葉を継いだのはヴァルトだ。シャンクは眉を寄せる。なぜこの黒ずくめの男はこんなにも人の不安を煽ろうとするのか。目が合うと、ヴァルトはシャンクに向けて片目をつぶった。
「ま、なるようになりますか」
 そうしてまた、ヴァルトは一人椅子を立って部屋を出て行く。それを見送ったシャンクが振り返ると、渋い顔のカッシュが目に入った。どうやらヴァルトに振り回されているのはシャンク一人ではない、それもたびたびの頻度で起こっているであろうことが伺われた。
 シャンクは肩をすくめて苦笑するしかなかった。


◇  ◆  ◇


 何度目かの唸り声が、男の歯の隙間を縫って出た。
「まだなのか! なぜ動かさん!」
 それに急き立てられた様子もなく、エンガルフは低く笑った。
「焦る事はない、まずは精神的にじっくり追い込む事だ。それに、」
 髪で右半分を覆った顔が、振り返る。
「ここで仕掛けて勝てるのか? あの《漆黒の魔導師》に」
 魔導師風の男―――ヴェスタルは、またしても唸り声を上げる。こうしている間にも刻々と、自分の身体は崩壊へと向かっている。
 龍の血が必要だった。この世に存在するあらゆる物の中で、融和剤として今の自分に適するものはただ一つ。伝説の龍族が姿を消した今、それを持つものはラドウェア女王のみ。そして女王に流れる龍の血が単なる伝説ではないことを、彼は知っている。
「まあよい。わしは魔力の充填に戻る。勝手な真似はするでないぞ!」
「クックックッ…。解っている。貴様こそするなよ、勝手な真似は」
「ふん」
 ギロリとひと睨みして、魔導師は森の奥へ入っていった。
「…さて」
 琥珀色(アンバー)の瞳。エンガルフは、夜の中に浮かぶラドウェア城に、舌なめずりをした。
「もうじきだ、レリィ。……いや、まだだ。もっと熟してからだ、お前の中の"それ"がな……」


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