Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"絶望と希望"
〜Despair and Hope〜

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 遠ざかっていく足音が静寂に消えてから、ティグレインは足元に問った。
「ヴァルト、貴殿。想定していたのではあるまいな」
「何を?」
「強力な魔導師が―――いや、ヴェスタルが、斯様(かよう)な策を以(も)ってラドウェアを攻める事を」
 少し間を置いて、ヴァルトが問い返す。
「どして?」
「あまりに貴殿の予想通りではないか!」
 声を大きくしたティグレインは、次の瞬間、火傷の痛みに顔をしかめた。
 エアヴァシーとリタの陥落、そこで使われた魔法。ラドウェアに張り巡らされた遮断結界。そして恐らくは、城壁を破壊するための魔動人形(ゴーレム)も。何もかもがヴァルトの予想通りに―――まるで彼が筋書きを記していたかのように流れている。
「想定はしないよ。まー、ヴェスタルならそこまでやる力はあるとは思ってたけど」
「思って居ながら何ゆえここまで捨て置いた!」
「さあ…ね」
 どこか意味ありげにヴァルトは視線を流し、口元に笑みを浮かべた。深呼吸で落ち着きを取り戻し、ティグレインが問う。
「ヴェスタルと知己であったが故か」
「や、そーゆーコトじゃないんだわ」
「では如何(いか)なる事か」
 声を荒げぬよう細心の注意を払いながらも、ティグレインは一所に留まっていられず、部屋の中をゆっくりと巡り始める。ヴァルトからの答えはない。魔導長は足を止め、溜息を漏らす。
「二十一年前だ」
「あん?」
「ヴェスタルはラドウェアから忽然と姿を消した。だが…」
 ティグレインは弱々しく首を振った。くすんだ銀色の髪が揺れる。
「あの姿を目にするまで結びつけられなかった。何者かがユハリーエ陛下の胎盤を盗んだ、その事実を知っていながら……力を求む者は魔導師しか有り得ぬと知りながら……」
 壁に背を預け、天井を仰ぐ。薄い部屋着を通して、石壁の冷たさが心地よい。
「師匠相手はつらい?」
 ヴァルトの問いに、ティグレインは無言を返した。おもむろに顔を下げる。いつの間にか、食い締めるように歯に力を込めていた。心臓の音が煩わしい。呼吸を鎮めることができない。
 ようやく絞り出したのは、ひとつの問い返しだった。
「貴殿こそ如何(いか)に。知己であろう」
「あー。オレは優先順位の問題でヴェスタルを捨てますよ」
「…その程度の仲であったと?」
「や、捨てられなくても別にいいんじゃね?」
 ティグレインは虚を衝(つ)かれた。ヴァルトが彼に顔を向け、目を細めて笑う。
「どうしても捨てられないものがあるんなら、それでもいいんじゃないの?」
 ティグレインは、時間を止められたかのように動かなかった。不可思議なものでも見るような目線を、ヴァルトに向けている。
 やがて、その瞼が伏せられた。
「ヴェスタルを……倒せると、思うか」
「や、誰もティグっちに倒せとは言ってないし」
 ヴァルトは含み笑う。
「さっきも言ったけど、ざくざくに切り刻めば、いくらあの体でも再生は無理よ」
「…左様、か…」
 伏せられた瞼が、そのまま閉ざされる。眉根が寄る。苦悩に浸されたティグレインに、ヴァルトはひとつ問った。
「オレがヴェスタル殺そうとしたら、止めに入る?」
「否」
 即答だった。ティグレインにしてみれば、むしろそうしてもらった方がありがたいというものだ。
「だが、これは弟子たる私の不始末。私が何もせぬ訳には行くまい」
「師の不始末は弟子の不始末って、普通それ逆ですけど」
 ヴァルトが含み笑う。もっとも、『普通』を引っ張りだしたところで、ティグレインの一人背負い込もうとする責任が軽くなるものでもない。
「それよかティグっち、そのヤケドで魔法使えんの?」
「多少であれば」
「使わんといて」
 再び、虚を衝かれてティグレインは顔を上げる。
「…とは何ゆえに?」
「魔力温存してちょーだいな、ってコト。次の手はあるに越したことないっしょ」
「次の手とは?」
「ヒミツ」
「…それでは判断のしようが無い」
 言ったものの、ヴァルトにあえて逆らうつもりはティグレインにはなかった。次の手とやらが何であるにしろ、今回の出撃が失敗に終わった時の対処は考えておかなければならない。そしてヴァルトは周到にその手を考えているはずだ。
 魔導師団はまず、近衛の出撃ための突破口を開く。陣形を展開しての複合魔法だ。その中にティグレインが参加しようがしまいが、魔法の威力に大きな違いが出ることはない。ラドウェア魔導長としては異例だが、ティグレイン自身の魔力は決して強大ではない。彼をしのぐ魔力や解放力を持つ者は、魔導師団の中にも片手で足りぬほどいる。それでもなお彼が今の地位にいるのは、魔力不足を補ってありあまる魔導具使いの巧みさと、その冷静沈着ぶりを、先々代魔導長シェードに買われたためだ。
 とはいえ、逆を言うならばティグレイン以上の魔力の持ち主がいるに関わらず、彼の魔力を温存しておけとはどういう意味か。ヴァルトならば何か策があるのだろう―――というよりも、尋ねたところで答えは返ってこないだろう、というティグレインの読みは恐らく正しい。
「承知した」
 壁から背を離し、ヴァルトのもとへと歩み寄る。
「全て杞憂に終わって貰いたい物だな。明日の出撃で終わればそれに越した事は無い」
「まーね」
 ヴァルトの反応は芳(かんば)しくはなかった。ティグレインもまた、口ほどに楽観的にはなれず、魔法陣の光を灰色の目に満たしながら、その表情はどこかしら陰鬱だった。


◇  ◆  ◇


 魔導師の塔を後にしたコウは、生ぬるい夜風に身を任せながら中庭を歩いていた。光の回廊で足を止め、薄白い光を放つ祭壇を眺める。
 件(くだん)の預言も、この祭壇でレリィが授かった。ディルティンとディアーナが婚約の儀を行なったすぐ後のことだ。そして、シルドアラの兄弟がやって来たのがその次の日。もう六年も前になる。女王の『最後の盾』は自分ではないと知った、あの時の鈍く重い衝撃は今もなお、心の片隅に住み着いて離れようとはしない。
「コウ…」
 か細い声が、彼を呼んだ。振り向く。
「ディアーナ様、」
 女王の姿がそこにあった。声と同じく、今にも存在を失ってしまいそうなその様子には、会議の時に見せていた気丈さはどこにもなかった。何が彼女をそうさせてしまったのか。コウが心当たりを挙げるより先に、ディアーナ自身の口からそれが告げられた。
「リタは、本当に陥ちたのかな…」
 回廊の柱から延びて重なり合う魔光灯の光の中で、彼女は薄れゆく影のようにはかない。
「ディルティンが……ディルティンが…、」
 涙を湛(たた)える琥珀色(アンバー)の目は赤く縁取られ、ここに来るまでに既に何度となく涙を流してはぬぐったものと思われた。
 リタは陥ちた―――その可能性をヴァルトが示唆したのは、昨日のことだ。可能性の示唆は、いつしか確信に変わっていった。だが悲しむ暇(いとま)のない、あまりにも目まぐるしい二日間だった。その間にも喪失の事実は徐々に徐々にディアーナを蝕(むしば)み、今宵、臨界点に達したのだろう。
 そう、たった二日だ。平和だった日々がはるか昔のように思える。
「春に…また来るって、…嘘を…つかない人だから…、ディルティン……」
「ディアーナ様、」
「秋…には、またリタに呼んでくれるって…、『ご機嫌よう、従妹(いとこ)殿』って…」
「…………」
 コウは唇を噛んでうつむいた。気休めなど言ったところで、彼女を苦しめるだけだ。抱き寄せて頭をなでてやれば、少しは彼女を安らげられるだろうか。だが育ての父としての接し方は、彼女が即位した時に自ら封じた。そして、今ほどそれを後悔したことはない。
 そのまま泣き崩れるかと思えたディアーナは、しかし、まっすぐに顔を上げた。涙がひとすじこぼれる。彼女はそれをぬぐわなかった。ひとたびぬぐえば次々にこぼれることを知っているかのように。
「……大丈夫、」
 珊瑚色(コーラル)の小さな唇が、微笑(ほほえ)んだ。瞳は、ほんのわずかの時の間に、焦点を現実に戻している。
「大丈夫……大丈夫」
 ゆっくりと両頬を伝っていく涙。ディアーナは二度三度まばたきをし、軽く鼻をすすって、笑顔を作った。
「ごめんね。ありがとう、コウ」
「いえ、私は何も…」
 ディアーナは頭(かぶり)を振る。
「ううん。聞いてくれて、ありがとう」
 ―――強くなった。
 コウは驚きと共に、衝撃に似たものを感じた。
 ―――この子は、強くなった…。
 いつの間に、子は親を超えていくものなのだろう。そして、超えられてしまった親は、何と小さく無力なものなのだろう。
 ―――この子に俺は、もう必要ない。
 安堵と寂しさの入り交じったこの感情を、一体何と呼べばいいものか。コウは目を伏せたが、唇には自然と笑みが浮かんでいた。
 ディアーナが瞼を閉じる。
「…みんな、傷ついてる。大事な人を亡くして、みんな、…みんな」
 そして開いた目には、ひとつの決意が宿っていた。
「私が、ラドウェアのみんなを……守るよ。きっと守り抜いて見せる」
 圧倒されるほどの強い視線、その意志。回廊の光は、もはや彼女が内から放っているものであるかのようだった。そのまばゆさに、コウは目を細める。
 彼女がラドウェアを守るというならば、自分が取るべき道はひとつ。
 ―――俺は、生きている限り、この子を守ろう。この子を……いや、たった一人のラドウェア女王を。
 預言に怯え、いつか訪れる死に怯えるよりも、たった今を懸命に生きることだ。その結果が死につながったとしても、そこに後悔はないだろう。
 全ての準備は整った。明日、この無慈悲な戦いに決着をつける。近衛長として、女王を守る者として。
「あなた様の決意、しかと見せていただきました。今日のところはお休みなさいませ、ディアーナ様」
「はい。…明日は、」
 ディアーナは一度口をつぐみ、コウを見上げる。
「明日は……気をつけて、コウ」
 コウはそれを、主君が配下の者の安否を気遣ったものとして受け取った。
「ご心配なきよう。必ずやお役目を全ういたします」
「コウ…」
 ディアーナの瞳が不安に揺らぐ。コウは安心させるように笑んだ。
「さあ、城にお戻りください。侍女たちも心配しておりましょう」
「…はい」
 きびすを返して数歩歩き、ディアーナは振り返った。
「コウ、ありがとう。お休みなさい」
 回廊の光の中に消えていくディアーナを見送り、コウはもう一度笑んだ。


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