Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"祈りと願い"
〜Save us〜

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 走り出す兵士たちの後方では、巫女レリィがその本領を発揮しようとしていた。手には、薄布飾りのついた長い杖。代々引き継がれる、巫女の杖だ。
 彼女が行おうとしているのは全軍鼓舞。一時的に味方の能力を高める、『祈り』あるいは『祝福』と呼ばれるものだ。
 数百年前の戦乱の時代ならともかく、大陸街道が整備され、それぞれの国がある程度の落ち着きを取り戻した今は、巫女の全軍鼓舞が必要とされる場面など滅多にない。レリィとて、六年前のレキアとの戦いで一度使ったきりだ。
「―――我が魂は天を駆け、馳せる風のごとく汝らを抱(いだ)かん」
 精神統一を終え、杖を掲げる。薄布が風をはらみ、風にひらめく。
「その肉体(からだ)より重さを取り去り、その精神(こころ)より恐れを取り去り、汝らが力の全てを解き放て!」
 一気に杖を振り下ろす。彼女を包んでいた見えない力が、確かに今、地の上を走り、前方の兵士たちを包み込んだ。
 馬がいななき、竿立ちになる。「馬は得意ではない」―――そう周囲に漏らし続けていたコウが、とっさに重心を変えて落馬を免れたのも、レリィの全軍鼓舞の恩恵だろう。運動能力を飛躍的に高めるその効果は、彼をはじめ出撃した全ての兵士たちに及び、そこかしこで高ぶりに驚く声が上がった。
 ―――レリィ…。この六年で、これほどまでの力をつけていたとは。
 知らず、コウの口元に笑みが浮かんだ。馬をなだめ、剣を振りかざす。
「死体は極力相手にするな、隊列を整えろ! 全軍前進!」
 興奮さめやらぬ声が、鬨(とき)となってあたりを揺るがした。


◇  ◆  ◇


 長い髪を風に流しながら、ディアーナは露台(バルコニー)から空を眺めていた。侍女のエリンがそれを見て取り、同じく露台に出る。
「どしたの? こんな所で」
「…風が、出てきたね」
 言われて、エリンは東の空に目をやる。雲の流れが速い。山間(やまあい)からわき出した灰色の雲が、空に支配を広げようとしている。まもなく雨になるだろう。
「…大丈夫よ、きっと」
「うん…」
 ディアーナは祈るように瞼を閉ざし、自分の体を抱きしめた。


◇  ◆  ◇


 一閃。そして、その後に真紅が舞い散った。
 その場の誰もが、起こった事態を理解できなかった。それを目にした者たちも、首をはねられた当の者たちも。
「わ…」
 誰かが声を上げた。首を失った兵士たちが、鮮血をまき散らしながら次々と倒れていく。
「落ち着け!」
 恐慌状態になる前に、コウの一喝が飛んだ。周囲に素早く目を配る。
 いつ、どこから現れたか。ひどく目立つ男が一人、彼らの行く手に立っていた。
「近衛長…か」
 血にまみれた魔剣に舌を滑らせ、その舌で自らの唇をなめる。血の紅に彩られ、その唇は不気味なほどに妖艶。
 ヴァルトから特徴は聞いている。だが恐らく、聞くまでもなかっただろう。戦場に単独で姿を現す不敵さ、これほどまでの残忍さ。《霊界の長子》、エンガルフ。
「全軍後退!」
 コウは声を張り上げた。
「させるか」
 エンガルフが魔剣を掲げる。その不気味に脈打つ管に埋もれた『目』が、開いた。禍々しいその瞳から一条の闇が放たれ、巨大な球体となってコウの後ろにいた兵士たちを飲み込む。闇の球に搾られるように、おびただしい量の血が宙に飛び散った。
 ―――これは…、
 人の手に負えないものと、対峙している。血が地面に降り注ぐ音を聞きながら、コウは悟った。
「全軍撤退! 即刻、作戦を中止せよ!」
「…、全軍撤退!」
 我に返ったジャルークが復唱する。そしてコウが自らも馬首を返したその刹那、馬が高くいなないた。鼻を激しく鳴らして前進を拒もうとする。
 振り返ると、エンガルフの魔剣から延びた鎖が、逃さぬとばかりに馬の後足に絡みついていた。兵士達の間に戸惑いの声が上がる。
「近衛長!」
 コウは即座に声を張り上げた。
「立ち止まるな! 撤退だ!」
「ほう。諦めが早いな」
 低く笑うエンガルフ。
「束になってかかってきたらどうだ? 楽しいぞ?」
 挑発に乗るつもりはない。束になったところで結果がどうなるかは、つい今しがた目にしたばかりだ。
 だが。今、味方の撤退を妨げているのは、自分だ。
「ジャルーク! 指揮を執(と)れ!」
「し、しかし…」
「命令だ、撤退しろ!」
 どよめく兵士たち。コウは焦りを禁じえなかった。常に自らが心を砕いて接してきたのが仇(あだ)となったか。あの光景を見てもなお、彼らは命令が下れば戦うつもりでいるというのか。
 早鐘のように鳴る心臓。冷たく痺れていく頭の芯。活路を見出そうとするが、その尾をつかむことすらできない。
 雷鳴が轟く。動くに動けぬ彼らの前で、首を失った兵士たちが立ち上がり始めた。


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