Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"揺らぎ"
〜Feeling Lost〜

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 昼下がりだった。わずかに開いた窓から、雨の後の湿った風が流れ込んでいる。
 扉を叩く音を聞いた気がして、アリエンは縫い物をする手を止めた。隣で、長男リートが、読んでいた本から目を上げる。
 縫いかけのズボンを置いて小走りに扉に駆け寄り、アリエンは扉に声をかけた。
「どなた?」
「…ディアーナです」
 声を聞くなり、アリエンは扉を開ける。そこには、外壁に半ばもたれ掛かるようにして辛うじて立っているディアーナの姿があった。その顔色は紙のように白い。
「いかがなさいましたか、ひどく血の気のないお顔を…」
「……」
 ディアーナは目を伏せ、首を横に振る。神妙な顔になるアリエンの後ろで、駆け寄ってきたリートが頭を下げる。
「こんにちは、ディアーナさま」
「あ、うん。こんにちは…リート…」
 ディアーナの声は小さくなり、そのまま口の中に消える。アリエンは振り返ってリートの背中を軽く叩いた。
「リート。シアおばさんの所へ行って小麦粉もらってきて」
「こないだもらったよ」
「あ…。あれは、シューンがこぼしちゃってもうないの。今夜はシチューにしましょう。リートも好きでしょ?」
「うん。行ってきます」
「気をつけてね」
 ディアーナの脇をすり抜けて走っていくリート見送ると、ディアーナの両手を取って、屋内に導く。入り口の扉をゆっくりと閉じて、アリエンはディアーナに向き直った。
「どのようなお話ですか。ディアーナ様」
「あ…」
 ディアーナは顔を背けた。わずかに首を振る。目をつぶり、眉間には苦しげなしわが寄る。やがて、ゆっくりと、彼女は首をうなだれた。
「ごめん……アリエン」
 震えが前髪を小刻みに揺らす。咽奥から、ディアーナはかろうじて声を絞り出した。
「コ…コウが、……コウがっ……」
 不意に、アリエンはディアーナの体を抱きしめた。
「どうか、ディアーナ様。お気をしっかりお持ちください。…私は覚悟できていました。もうずっと前から」
 ディアーナは涙をたたえた目をさまよわせ、アリエンの表情を確認しようとする。だがアリエンは彼女をきつく抱きしめたまま放さない。
「ディアーナ様。あなたは私よりもずっと長く彼と一緒にいらっしゃった。彼はあなたにとって、父親同然であったと聞きます」
 その言葉が引き金になったかのように、数々の記憶がよみがえる。
『今日から、よろしくな』
 あれは、春の木漏れ陽の中、幼いディアーナと同じ目線の高さで。
『こら! 目を見て返事しなさい』
 それは冬の日、レリィとふざけ合っていたところを咎(とが)められ。
『この先もずっと、今までと変わらずあなたのお側に仕え、あなたとラドウェアをお守りいたします』
 即位式の前夜、光の回廊で、態度の変化を問い詰めた彼女に。
 そのコウは―――父として近衛として常にそばにあった彼は、もう、いない。
 ディアーナの両の目から、涙がひとつ、またひとつ、頬を伝って落ちていく。
「けれどどうか…、どうかお気を強くお持ちください。今はお好きなだけ泣いて、…そして明日には顔を上げて」
『強くなりなさい、ディアーナ』
 差し伸べられた、大きな手。温かい手。
『強くなれ』
「…っ…」
 堪え忍んでいた声が、涙と共に堰(せき)を切ってあふれた。アリエンの小さな体にしがみつくように泣き叫ぶ。
「うぁあああああぁ…! ああああーーーーーっ…!!」
 その体を抱きしめたまま、アリエンはそっと瞼を閉ざした。


◇  ◆  ◇


 魔導師の塔、六階。ヴァルトの部屋がある。入り口はおおよそ他の魔導師と異なった点はない。その部屋の前で、扉を叩こうとする姿勢のまま、モリンが立ち尽くしていた。
「ヴァルトに報告か?」
「えっ? あ、は…はい、あの…」
 後ろからのシュリアストの問いかけに不意を衝かれ、モリンは慌てた様子で通路を開ける。
「お、お先にどうぞ」
 そう言って、モリンは体ごと顔をそむけた。シュリアストは無言でつかつかと歩み寄り、左手で扉を二回叩いて、引き開けた。
 がらんとした部屋だ。家具といえば机と椅子と寝台があるだけ。他に目に留まるものといえば、七界儀と数冊の本ぐらいのものだ。
 部屋の主は机に突っ伏していた。シュリアストはその名を呼ぶ。
「ヴァルト」
「おわぁち」
 ヴァルトは飛び起きる。
「やっべ、寝すぎた」
「…寝てたのか」
 姿勢や状況としては寝ていた以外の何物でもないのだが、ヴァルトが睡眠を取るということがなぜかしらあり得ないものに思えたか、シュリアストは意外そうに呟いた。そのシュリアストに今初めて気づいたように、ヴァルトは顔を向ける。
「何、シュリっち珍しいわね」
「腕を折られた。治せるか」
「や、治せるかって言われたらそりゃ治しますがな」
 机の下から丸椅子を引き出し、シュリアストの前に置く。次いで体を彼の方に向けて脚を組んだ。椅子に腰掛けたシュリアストが差し出す右腕を一瞥し、動きを止める。
「何この折れ方。馬にでも踏まれた?」
 手甲ごとひしゃげている。鎧の上から瞬間的に強い圧力をかけたものと見えた。
「いや。例の男に…」
「例の?」
 問いながら、ヴァルトは台の上にシュリアストの右腕を乗せ、手際よく手甲を外していく。
「《霊界の長子》だ」
 鎧を外し終えたヴァルトの手が止まったのは、作業が一区切りついたせいか、はたまたシュリアストの言葉に何らかの衝撃があったせいか。いずれにせよ、ヴァルトの口調は普段と同じ調子だった。
「うん、それレリちゃんには黙っといて。あ、腕ちょっと麻痺させるから力抜いてくれる?」
 鎧下(ダブレット)をまくり、むき出しになった自らの腕を目にして、シュリアストは眉をしかめた。患部は赤黒く変色し、あり得ない凹凸が生じている。ヴァルトはその上に指先を踊らせ紋を描く。得意の描紋魔法だ。
「…コウがやられたからには、レリィにも伝わるだろう」
「やられた?」
「首をはねられた」
 バチン、という音がした。何事かとシュリアストは反射的に身を堅くし、結果、激痛に顔を歪める。
 ヴァルトは手首を振った。
「悪ぃ、しくじった。ちょ、もっかい」
 人差し指を患部に垂直に当て、今度は先程よりややゆっくりと描く。生じた淡い色の魔導紋は、しかし再び破裂音を残して消えた。
「……ちょ待って、今寝起きで調子悪ぃ」
 額に手をやるヴァルト。何が起こったのかとシュリアストが問うより先に、扉を叩く音に続いて部屋の扉が開いた。
「ティグっちいいトコ来た。コレ全身麻酔!」
「は!?」
 ヴァルトに指されたシュリアストが、頓狂(とんきょう)な声を上げる。彼が立ち上がりざま振り向く一瞬の間に、ティグレインは状況を察した。二本の指をそろえ、抗議しかけるシュリアストの額に当てる。
「―――な……」
 体を支える力を失い、上体を傾けるシュリアストを、ヴァルトが受け止めた。
「グッド」
 意識をなくしているのを確認し、ヴァルトはニッと笑った。ティグレインの得意とする眠りの魔法だ。
 袖をひと振りして、ティグレインは腕を組む。
「何ゆえ私に?」
「あー、あーーー、あー…」
 うつむき加減の無表情で、ヴァルトは目を閉じた。
「ティグ。ちょ、やべぇんだわオレ。頭回んねー」
「…コウ殿の事は聞いたか」
「うん、聞いた。あー、うん、アリエンの方頼むわ」
 ティグレインは無言のまましばしヴァルトに目を落としていたが、やがて外套(マント)をひるがえした。戸口のモリンに声をかける。
「モリン。魔導師団に召集を掛けておけ」
「は、はい」
 モリンはティグレインに続いて部屋を出、扉を閉めた。離れる際にもう一度扉に目をやったが、振り切るように、ティグレインの背中を追いかけた。


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