Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"執着"
〜Distorted Love〜

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 魔導師の塔を出ると、暗灰色の雲の狭間の不自然に青い空を背景に、中天から下りかけた陽が輝いていた。
 光の回廊を早足に抜け、城に入る。速度を緩めることなく廊下を渡り、正門から城下に出る。知らず知らず脳裏に浮かぶのはヴェスタルの顔。ティグレインは首を振る。
『―――ぬしには素質がある。良き生徒だ』
 滅多なことで人を褒めはしない師の、数少ない賞賛だった。それは師が姿を消した後も、ティグレインを支え続けた柱たる矜持(きょうじ)のひとつだ。
 その師が今、ラドウェアを攻め滅ぼそうとしている。対するは弟子たるティグレイン、そしてたった一人の娘たるアリエン。
 だが。ヴェスタルの言葉が頭をよぎる。
『アリエンがわしの娘と限った話ではない』
 ―――ならば誰の娘だと…。
 生ぬるい風が身にまとわりつく。ここからは遠いはずの血の臭いを運び込んでくるかのようだ。
 ふと、ティグレインは足を止めた。
 魔力、少なくとも魔法の内包力は遺伝すると言われている。当時、ラドウェアにいたヴェスタルと並ぶ魔導師と言えばただ一人。
 ―――シェード、か?
 声には出さずに呟いた。
 《宵闇の魔導師》、先々代の魔導長。黒と銀の髪を背中に流して不敵に笑む、彼もまた長命の魔導師だった。その鎧めいた右の義腕は、何の因果かヴェスタルが作成したという。放浪を重ねていたティグレインをこの城に連れて来、ヴェスタルに師事させたのは、そのシェードに他ならない。
 ―――まさか。だが、他には…。
 ティグレインは振り向き、城を仰ぐ。そうしたところで答えを得られるはずもないというのに。
 美女と謳(うた)われたアリエンの母マリエナは、産褥(さんじょく)で命を落としている。アリエン、ティグレイン、共にその生前を知りはしない。マリエナの知己の一人であるシェードもまた、自らの死を匂わせる台詞を残して姿を消した。
 その二人の関係を知る者がいるとすれば。ティグレインは足を向ける方向を変えた。
「―――カルナリエ」
 城下の館の扉を開きざまに呼ぶ。玄関脇の窓を拭いていた小さな人影が、彼の声に反応した。布を桶の縁にかけ、ティグレインの前に立つと、深々と一礼する。
「お久しゅうございます、旦那様」
「その呼び方は止(よ)せ」
「ふふ。旦那様は旦那様でございます」
 カルナリエは微笑(ほほえ)んだ。鮮やかな緑の髪を頭巾の下でまとめ、きっちりとした給仕用の服を着込んでいる。彼女の昼の姿だ。
 シェードの話によれば、目と髪の色を除けばマリエナに瓜二つだという。世に出ていれば最高傑作と賞賛されたであろう、彼女もまたかつてヴェスタルが作成した魔動人形(ゴーレム)。そして、ヴェスタルが姿を消し、アリエンがコウと共に暮らし、ティグレインが魔導長として魔導師の塔に居を移した今、この館のただ一人の住人。
「そのお怪我は…火傷(やけど)でございますか?」
 問われて、ティグレインは自らの右頬に手を当てる。刺すような痛みは大分治まっている。顔の筋肉を動かすごとに引きつりはするが、もとより雄弁な表情の持ち主ではない。
「大事無い。それよりも、」
 ティグレインは切り出した。
「マリエナとシェードの間柄について、何か知っているか」
 カルナリエはひとつまばたきする。
「大奥様の病を看(み)に、シェード様が館を訪れることはたびたびございましたが…」
 彼女の言う大奥様とは、マリエナのことだ。
 先刻から身を苛(さいな)む言いしれぬ感情を、ティグレインは溜息にして吐き出す。
「…ヴェスタルは、アリエンが己の娘では無いと疑っている」
「大旦那様が、生きておいでなのですか?」
 当然の問いだ。だが、ティグレインは答えない。カルナリエの青い瞳が彼を正面から見つめる。
「もしや、ラドウェアを攻めている魔導師というのは…」
 ティグレインはやはり沈黙を貫き通す。だがその無言こそが肯定だ。
「…そうなのですね?」
「許せ、とは言わぬ。私は何一つ気付かなかった」
 きょとん、とカルナリエはまばたきする。ティグレインは続けた。
「ヴェスタルがアリエンに対して酷く当たっていたのも、シェードとマリエナの関係が有ったとすれば合点(がてん)が行く。ラドウェアを棄(す)て、人である事を棄てたのも、或(ある)いは……その事が関係していたのやも知れぬ」
 シェードの紹介でこの館に引き取られた時から、師が幾度となくアリエンに手を上げていたのを目にしたし、割って入って止めもした。ヴェスタルの心を知るすべもないティグレインには、なぜヴェスタルがそのような行動に出るのかわかるはずもなかった。だが今、それがひとつの線でつながったように思う。
 苦悩の表情を見せるティグレインを、カルナリエは穏やかな眼差しで見やる。
「こんな噂がございました。大旦那様とシェード様はかつて大奥様を巡って争い、大旦那様は大奥様を、シェード様は地位を手にすることを選んだ、と」
「では、」
「噂は噂。ですがいずれにせよ、シェード様と大奥様、お二人の間には何ひとつ疚(やま)しきことはございません」
 カルナリエは胸に手を当てる。
「わたくしには記憶があるのです。大奥様の記憶が」
 今度はティグレインが虚を衝かれた。
「記憶が? 魔導師でも無いマリエナの記憶を保存する術(すべ)があったと?」
「疑われますか?」
「…………」
 ティグレインは黙り込んだ。魔導師としては、カルナリエの言葉は確かに疑わしい。しかし、ヴェスタルがそれを可能にしたとすれば。あり得ない話として否定はできない。そもそも、魔動人形(ゴーレム)が嘘をつくことなどあるのだろうか。
 カルナリエの言うことが真実だとすれば、すべては誤解であったのかもしれない。すべては、マリエナの貞節を疑うヴェスタルの疑心暗鬼にすぎなかったのかもしれない。だが、それを今さら師に告げて何になろう。不信という種はすでに芽を出し、育ち、実をなして、種そのものはもはや姿形もない。
「大旦那様は大奥様を、それはそれは愛しておられました。人が見れば執着とも言えるほどに」
 そうなのだろう。その何よりの証拠が、マリエナの生き写したるカルナリエ自身だ。そう考えれば、魔力の供給源たる館を離れることのかなわぬ身であることすら、ヴェスタルが彼女の首にかけた見えない鎖を描き出しているかのようだ。
「そして恐らくは、お嬢様のことも愛しておいでだったのではないでしょうか」
「アリエンを?」
「ええ。大奥様の娘であることは疑いようのない事実でございますから」
 心当たりはないではない。共に館に暮らし始めたティグレインを、ヴェスタルは執拗にアリエンから遠ざけようとした。それもまた、アリエンに対する執着ゆえの行いだったのだろうか。だとすれば。
 ぼそり、とティグレインは呟いた。
「不器用…だな」
「天才という生き物は、その偉大なる力あるいは才と引き替えに、生きるすべを忘れて来るものだ、と―――シェード様がおっしゃっていました」
「成る程、彼らしい」
 シェード自身、真っ当とは程遠い生き方をしていた。身を削って精霊や魔物と契約を繰り返し、外道の魔導師やティグレインらを相手に彼独自の論理を高らかに展開する様は、到底常人ではありえなかった。彼と入れ替わるようにラドウェアに現れたヴァルトすら、シェードを指す時は大概笑いながら「外道」と呼んでいた。
 感慨に耽(ふけ)るティグレインの首に、カルナリエは白い両腕をのばす。ティグレインは拒むでもなく問った。
「魔力切れか?」
「いいえ」
 人間の精の魔力変換。それを可能にする魔導具や魔法陣は五万とある。だが師はよりによってなぜ、愛する女性の生き写しにそのような変換法を組み込んだのか。ティグレインにしてみれば、趣味が悪いとしか言いようがない。ヴェスタル自身がカルナリエを寝室に入れる事はついぞなかったというのに。
「少し、人の温(ぬく)もりが欲しゅうございました」
「…不安か」
「そう…なのかも知れません」
 至近で見上げてくる青い瞳が、潤んでいるように見えたのは、ティグレインの錯覚だっただろうか。
「旦那様、どうかお嬢様を」
「解っている」
 片手でカルナリエの腰を抱き、もう一方の手で彼女の髪をひとなでして額に口づけると、ティグレインはするりと彼女から離れた。
「掃除の途中だったのでは無いか」
「はい。もうお帰りになられますか?」
「別に用が有るのでな」
 玄関に足を向けるティグレインの後を小走りに追って、カルナリエは見送りに出た。ティグレインは振り返る。
「ではな。息災で」
「旦那様こそ」
 ティグレインはうなずき、玄関の扉を押し開けた。西の空が茜(あかね)がかっている。彼にはそれがなぜかしらひどく不吉な色に思えた。背後で扉が閉じる。
 数歩歩んだところで振り返り、館の窓を見やると、カルナリエが窓拭き作業に戻っていた。決して主の帰ることなき館を、こうして維持し続ける侍女。もし魔動人形(ゴーレム)にそのような言葉を使うことが適切であればだが、彼女もまたヴェスタルを愛しているのではないか。昔であれば一笑に付したであろう思いつきを、いつからかそうとはできなくなった自分に、ティグレインは自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みを漏らしていた。

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