Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"離脱"
〜Breaking Away〜

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 肉と野菜を煮込む、ほの甘い香りが漂っている。くつくつと煮える鍋に視線を落としながらも、茶褐色の瞳はどこか遠くに焦点を結んでいた。
「―――こら! 捨てるんじゃない、もったいない」
 あれはコウ・クレイド・ヴェフナーの妻となって間もない頃。その時もやはりシチューを作っていた。正確には、まさにそれを処分しようとしているところを見つかったのだ。
「どうしたんだ一体」
「っ……。マリルの面倒を見ていたら焦がして…」
「どれ」
 制止の暇を与えず、コウが杓子(しゃくし)を取って鍋をかき混ぜる。
「焦げてないじゃないか」
「…………」
 そうされてはごまかしようがない。渋々ながら打ち明ける。
「…味付けを失敗して…」
 今度はコウが杓子をそのまま口に持っていく。
「大丈夫だよ。俺が作るよりよっぽど上手だ」
「…そんな慰めは、」
「アリエン」
 顔を背けた彼女を引き留めるように、コウは名を呼ぶ。
「どうして、そう言うんだ」
 その真摯な眼差しに、身がすくむ。いつとてそうだった。彼の目はひどく真っ直ぐで、射抜かれた者を戸惑わせずにはいない。
「君が駄目と言っても俺は食べるよ。いいだろう?」
 そう笑った彼は、もういない。
 ことり、と杓子を置く。
 ―――「覚悟はできていました」
 ディアーナに対しては、確かにそう言った。だが。
 ―――何の覚悟が…?
 あれは、泣き崩れんばかりの女王に対する、反射的な強がりにすぎなかったのだろうか。
 ―――コウ。
 十余年も昔のことを、今でも鮮明に思い出す。魔導師の塔から少し離れた回廊の脇で待っている、少し背中を丸めた姿を。煙る雨の日には頭から外套(マント)に身を包んで、凍てつく雪の日には白い息を吐きながら。
 ―――どうしてもっと早く応(こた)えなかったのだろう。
 戦いの度に、あきれるほど怪我をして帰ってきた。そんな彼に、不安と苛立ちに任せて当たったことも一度や二度ではない。
 ―――どうしてもっと深く労(いたわ)らなかったのだろう。
 竈(かまど)の縁に両手をかけたまま、アリエンはゆっくりと膝をつき、その場に座り込む。
 ―――こんなに愛していたのに……!
 火の粉が頬をかすめる。目頭が熱いのは、竈(かまど)の熱のためか、堰を切ってあふれそうになる涙のためか。
「アリエン」
 突然降ってきた声に、はじかれたようにアリエンは顔を上げた。手早く涙をぬぐい、立ち上がって振り返る。
 ティグレインがそこにいた。
「子供を連れて表に出ろ」
「は…はい」
 有無を言わせぬ彼の物言いと、涙を隠そうとする努力が相まって、アリエンは疑問を差し挟むことなく従った。手早く火の始末をすると、三人の子を呼び、庭に出る。
「うわぁ」
 末子のシューンが歓声を上げた。外壁に消えかかる夕日を背に、巨大な黒鳥が鎮座していた。かつてはシェードの、そして今はティグレインの所持する、巨鳥レイベン。唖然と、アリエンはそれを見上げる。
「こっ…、これは、」
「乗れ」
 今度は、その指示には従えなかった。アリエンはティグレインに向き直る。
「どういう……事ですか」
「エスターンへ逃れろ」
「な…、」
 短い絶句の後、アリエンは鋭い声を上げた。
「できません! なぜ私たちだけを! 民すべてを等しく扱う行いをするのでなければ、人の上に立つ者たりえぬとおっしゃったではありませんか!」
 まくし立てるアリエンの言葉が切れたところで一呼吸置き、ティグレインは表情を変えずに言った。
「あれは、私の綺麗事だ」
「ティグレイン殿!!」
 愕然としながらも、なおもアリエンは食い下がる。
「シェード様のお言葉をお忘れですか!? 常に己を見失わず、自らの成す事を問い続けよと!」
「アリエン」
 やはり、ティグレインは表情を変えない。
「私は、所詮、人間だ」
 所詮、と彼は口にした。彼が人知れずこだわり続けた人間という存在を、あえて自らと共に貶めた意味に、恐らくアリエンは気づかなかったであろう。絶望にも似た溜息が、長く尾を引いてアリエンの口から漏れた。彼女はゆっくりと首を横に振る。
「…あなたは、魔導長失格です」
 初めて、苦笑めいた笑みがティグレインの唇に浮かんだ。
「ではティグレイン・ブラグナードは本日を以(もっ)て魔導長解任だ。さあ、乗れ」
「ティ…、」
「のっていいの? のせて!」
「よしなさい、シューン!」
 前に出ようとする息子の手を引いて引き留める。シューンは驚いて口をつぐんだ。アリエンは再度、首を振る。
「でき…ません」
 毅然と顔を上げる。
「私は、近衛長の妻。まして一度は魔導長を勤めた者。ラドウェアを守る義務があります。どうして一人逃げる事ができましょうか!?」
「いい加減にしろ!!」
 アリエンの予想だにしない事態が生じた。ティグレインが声を荒げたのだ。雷に打たれたようにアリエンは硬直する。
「今のお前に何が出来る! 魔力も無いのに気位(きぐらい)ばかり! ラドウェアはお前を必要とはせぬ!」
 驚愕に見開かれたアリエンの目に、涙がにじんだ。徐々にうつむいたその顔を両手で隠し、声を押し殺してすすり泣く。
「だがお前の子供達はどうだ」
 一転して元の調子に戻り、ティグレインは諭(さと)す。
「母として子を守れ。何の不足が有る」
「…私は…、ティグ…レイン殿、私はッ…、コウの仇(かたき)を…ッ…」
「案ずるな。―――私が討つ」
 その宣言と面差しには凄みさえあった。だがそれも一瞬のこと、外套(マント)をひるがえして大股で巨鳥に歩み寄る。
「さあ、乗れ、アリエン。お前が乗らねば子供達も乗れまい」
 手綱に手をかけ、アリエンに延べる。アリエンはうなだれたまま、シューンに両手を伸ばして抱き上げた。常に意思を明確にすることをその身上のひとつとする彼女が、普段であれば必ずあるはずの承諾の言葉を発しなかったのは、精一杯の抵抗か、はたまた打ちひしがれ無力感に苛(さいな)まれたがゆえか。
 幼いながらに空気を察してはしゃぐのを控える末子のシューンと、こちらは初めから静かに事の成り行きを見ていた長男のリート、そして、アリエン自身が鞍に乗ったのを確認して、ティグレインは長女マリルを両手で抱え上げた。
「ティグ先生、お別れなの?」
 不意にマリルが口を開いた。少女の大きな瞳が不安げに揺らいでいる。
「そうだ」
「先生は行かないの?」
「……フッ」
 ティグレインの唇から微笑が漏れた。
「そうだな」
 マリルを鞍上のアリエンに引き渡し、自らの両手を頭の後ろに回す。音も立てず、小さな留め金が外れた。赤い宝石の額飾りだ。マリルの額にそれを合わせ、頭の後ろで留(と)める。
 少し離れて、ティグレインは満足げに目を細めた。かつてアリエンの額を飾ったものだ、マリルに似合わぬはずがない。
 その額飾りが代々の魔導長のものであることを知ってか知らずか、マリルは落ち着かなげにティグレインを呼ぶ。
「先生、」
 ティグレインは瞼を閉じた。だがその時間は長くはなく、軽い呼気と共に彼女の傍(そば)を離れる。
「―――行け」
 巨鳥レイベンへの、これが最後の命令だ。エスターン近郊で四人を降ろしたならば、あとは《宵闇の魔導師》シェード以来の契約を解く、即ち自由とする。港街エスターンが平穏無事とは限らないが、少なくとも不死の兵士たちの中にはかの街の鎧の兵士の姿は見当たらなかった。恐らくラドウェアのような混乱も免れているだろう。
 力強い羽ばたきの音。巻き起こる風。飛び立たんとする巨鳥を見上げる。舞い上がる砂埃の中、ティグレインは我知らず呟いた。
「もう、会う事は無い」
 聞き取れるはずもない。だがそれに反応したかのように、アリエンが声を上げた。
「ティ―――」
 背を向けたティグレインのもとに、悲痛な叫びが届く。
「ティグレイン殿ッ!!」
「…さらばだ、アリエン」
 遠ざかる黒鳥の羽音を聞きながら、背を向けた彼が振り返る事はなかった。


◇  ◆  ◇


 東の空はすでに闇と星の支配する領域となっている。その中に紛れるように、ひとつの影が城壁内から飛び立った。鳥の形をしていたが、ただの鳥にしては大きすぎる。
「あれは、シェードの…」
 呟く間にもそれは遠ざかって行く。撃ち墜とすべきか否か、構えるヴェスタルに、背後から声がかかった。
「案ずるな、女王ではない」
 エンガルフだ。今しも霊界の闇から空間を裂いて現れたところだ。
「クックック。大儀だったであろう、表層とは言え生身の人間が霊界に降りるのは」
 出撃の折、ヴェスタルが一時的に逃げたとティグレインが予測した異界は風界であったが、実際にはヴェスタルは風界に伝(つて)はなく、エンガルフが道を開いた霊界に身を隠した。普通の人間であれば、魔物に食らいつかれ、濃厚なる闇に発狂する。かつてその身に取り込んだ龍の血の力があらばこそ、辛うじて成し遂げ得た業(わざ)だ。
「どうした。女王ではないと言ったはずだぞ」
「…………」
 構えた手を下ろし、なおもヴェスタルは、巨鳥の消えて行った方角をじっと眺め続けていた。


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