Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"握られた手"
〜Clasped Hands〜

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「ティグっち、若いよね」
 おおよそ外見にも年齢にもふさわしからぬ評価に、ティグレインは眉を顰(ひそ)める。
「何の謂(い)いか」
「純情ってコト」
「…何の謂いか」
 二度目には溜息が混じった。到底、からかわれたとしか思えない。
 目が合って、ヴァルトが笑みを浮かべる。それは即ち、一瞬前までは笑っていなかったということだ。真顔で言うべき言葉だったとはティグレインには思えなかったが。
 魔導師の塔七階、魔導長ティグレインの部屋。窓から流れ込む夜風が心地よい。宙に浮かぶ魔光灯に照らされながら、いつものようにティグレインが自席で腕を組み、いつもようにヴァルトが丸椅子に座っている。二人の間を隔てるのは、本や紙束がうず高く積み重なった机。片付けが苦手なのではない、部屋の広さに対して物が多すぎるのだ―――ティグレインは常々そう主張する。その証拠に、本はきっちりと立て置かれ、紙束は耳をそろえて整えられ、魔導具作成に使われる道具は同じ向きでまとめられている。
 ヴァルトが天井を仰ぐ。
「いやホント、ヴィルが生きてさえいりゃエンガルフにぶつけたのにな」
 ヴァルトが挙げたのは、いつからかラドウェアから姿を消した白子(アルビノ)の名だ。ヴィルオリス、風の半精霊。ヴァルトと互角に渡り合う可能性のある、数少ない存在だ。
「貴殿、居(お)らぬ者の事をどうこう言った所で、と―――」
 言い終えようとして、ふと、先のヴァルトの言い回しを思い出す。
「…生きていないかのような言い草だな」
「多分生きてない」
 ティグレインは目を見張った。ヴァルトは首をかくりと垂れる。
「あいつ前にエンガルフと戦ってさ。深追いして霊界踏み込んだ。多分生きてない」
 初耳だった。ヴィルオリスの命がもはやないということばかりでなく、ヴァルトがそれを知っていることもまた驚愕に値した。なぜこの男は魔導長への報告を怠るのか。腹を立てようが叱ろうが、この風来坊は飄々(ひょうひょう)と逃げるだろう。それが判っているから尚更(なおさら)腹立たしい。
 腹立ち紛れというわけではないが、先刻の会議で確認しきれなかった疑問を投げやる。
「エンガルフが現れる可能性は確かに高い。だが、確たる保証は無いであろう。もし現れなければ如何(いか)にする」
 ヴァルトは再び天井を仰いだ。指で梁(はり)を辿っている。
「ヤツはレリィには直接手を下せない。だからヤツが狙うのは、レリィに一番近い人間。そして、それを使って取り引きを仕掛けてくる」
「シークェインか。であれば尚更(なおさら)危険では無いか」
「だけどエンガルフは確実に食いつく」
「だが、シークェインを守る術(すべ)は我々には無い」
「そう」
 ごく短いヴァルトの応え。そのたった二文字を、聞き違えたかとティグレインは鸚鵡(おうむ)返しにする。
「そう、…と言ったか?」
 ヴァルトはようやく目線を魔導長に戻した。
「うん」
 唖然とした、という表現を逃れ得ないだけの時間を経過させて、ティグレインは控えめに尋ねる。
「巫女殿のお子の事は」
「知ってる」
「知った上で…、シークェインを、……どうするつもりか」
 決定的な語を口にすることはできず、疑問で返す。藁にも縋(すが)るようなその想いを、ヴァルトは無情に粉砕した。
「オレは―――《七星の王》は、エンガルフをぶっ倒す。シークの命と引き換えに」
 吃驚(きっきょう)を、動揺を、禁じえなかった。シークェインを犠牲にする。ヴァルトはそう言い切ったのだ。
 なぜ。なぜ今、ヴァルトはシークェインを見捨てようとするのか。
 問いの爪を核心に食い込ませることができず、ティグレインは外堀を埋めようと試みる。
「シークェインが命を落としたと知れば、巫女殿は…」
「レリィは死なない」
 ヴァルトはきっぱりと言い切った。
「巫女は死にかけた人間を助けることはできる。でも、"死んだ人間"を甦(よみがえ)らせることは不可能。レリィは誰よりそれを知ってる」
 その外堀はあまりに広く深く、土を投げ込んだ音だけが空しく響くのを、ティグレインは聞いた気がした。
「断言できる。シークが死んでもレリィは死なない」
 世界が静かに動きを止めたかに思われた。窓から流れ込む生ぬるい風も、微かに届く葉ずれの音も、魔光灯の明かりも、すべて膜の向こうにあるかのようにしか知覚できない。知らず知らず奥歯を食いしばっていた自分に、ティグレインは気づいた。
「貴殿、それでは…」
「そう…、ああ、そうね。解った。『希望に輝く天空の星を射落とさんとする者』は、ヴェスタルでもエンガルフでもない。…オレだったってワケだ」
 ヴァルトは両腕を前に伸ばし、それに引きずられるように机に伏せる。傍らに積み上げられていた紙が、押し出されてなだれ落ちる。
 床に散らばった紙のすべてが緩やかに動きを止め、部屋には静寂が満ちる。伏せたままのヴァルトが、くぐもった声を漏らした。
「ティグ。止めるんなら今のうちよ?」
 ヴァルトを止める―――予想だにしなかったその選択肢を提示され、ティグレインは咄嗟(とっさ)の対応ができない。感情の整理に手間取る間に、ヴァルトが伏したまま頭をかきむしる。
「あーダメだオレらしくねー。ティグっちヘルプミー」
 まさにヴァルトらしからぬ発言に、逆にティグレインは幾らかの余裕を取り戻した。
「人間らしくなったものだな」
「何? オレはずっと人間よ?」
 顔だけを上げてヴァルトが抗議する。フッ、とティグレインは笑みを漏らした。
「初対面の頃には隙が無かった。…否、隙が無いことを自ら主張する不遜さが有ったと言うべきか」
 つい先日には、ヴェスタルを相手に『怒ってますよ』と言った。かつてのヴァルトであれば出なかった台詞だろう。
「あぁ、」
 納得したか、再びヴァルトは腕に顔を埋(うず)める。
「ディアーナとかさ…、コウとか、あのへんの伝染(うつ)った」
 深い吐息と共に、ヴァルトの背が上下する。
「ここは…好きだよ。すげぇ好き。致命的に好きだ」
 『致命的に』。「好き」という語にかかる副詞としては奇妙に思えた。だがヴァルトなりの計算の結果か、もしくは、今に限って言えば、彼の本心からそのまま出た言葉なのだろう。
 もし何か発言すれば、普段通りのヴァルトが起き上がって普段通りの軽口を叩いて返す、そんな日常に戻ってしまうのが惜しく、ティグレインは慎重に呼吸する。
 ヴァルトは何者なのか、という問いを思い出した。だがそれを問っては、やはり、この空気が壊れてしまいそうで、ティグレインは切り出すことができなかった。代わりに、先刻とは別種の笑みが、彼の口角を上げさせる。
「饒舌(じょうぜつ)だな、今日は。貴殿も私も」
「ああ…うん、いいんじゃない? 言葉にしとかないと動かないモノもあるっしょ」
 雑(ま)ぜ返しではない。その手応えに、期待に似た何かを感じている自分を、ティグレインは自覚した。
 正面切ってヴァルトと言葉を交わすことを、恐れていないと言えば嘘になる。すべてを見抜いているかのような、だが同時に、すべてを受け入れるような、黒い瞳。闇のような黒、とはよく言ったものだ。恐怖と安らぎの闇。身をゆだねてよいものか、ティグレインは迷っている。
 時たまヴァルトの口から出る「オレは人間だよ」という台詞。それは人間ではないからこそ出る台詞ではないかと思っていた。ティグレイン自身、風の亜人との四半混血(クォーター)である。長寿は、彼にとって忌むべきものであった。それは自分を人であることから遠ざける。彼は風界の血を受けながら、己(おのれ)の中にあったその芽を自ら刈り取り、人として生きることを選んだ。
 ヴァルトは人間ではない。確かにそうなのだろう。だが彼は、人間の弱さを持ち合わせている。初めて、ティグレインはそれを感じた。もしかするとそれもまたヴァルトの演技であるのかも知れない、だがティグレインにはそこまで彼に対して非友好的になるつもりはなかった。
 ―――結局、私は甘いのだ。
 過去に嫌と言うほど思い知らされた事実だ。十余年も昔になるだろうか、外道の魔導師の生贄(いけにえ)となった少女をかばおうとして、魔導長シェードに多大な犠牲を払わせた。取り返しのつかぬことをしたと、震えるばかりだった己(おのれ)に、血塗(ちまみ)れの唇でシェードは言った。「悪くない」と。「お前はそうやって足掻(あが)け」と。
 ―――臆病で、弱く、脆(もろ)く、甘い。そんな私が力を発揮出来る時は、唯(ただ)一つ。
 ―――命を懸けて何かを守らんとする、その瞬間だけ。
 愛するものがある。そのためであれば自らの破滅もいとわない。なるほど、人はそれを「純情」と呼ぶのかも知れない。
 死を匂わされた先日以来用意していたはずの戯言(ざれごと)を忘れ、ティグレインは力強く言った。
「協力させて貰おう。ラドウェアの為に、何なりと」
 ヴァルトの瞳と唇に、静かに、深い笑みが浮かんだ。
「やるぜ、例の魔法。覚悟オッケー?」
「とうに」
 椅子から立ち上がり、ゆっくりとヴァルトに歩み寄って、ティグレインは右手を差し伸べる。
「魔導師ヴァルト。魔導長として、改めて頼みたい。ラドウェアの為に、手を貸して貰えるか」
 ヴァルトは笑んだまま、子どもを見る親のように目を細くした。手を伸ばし、ティグレインの右手を握る。
「途中で離してもいいなら」
 フッ、とティグレインは笑った。
「貴殿は、離すまい」

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