Radwair Cycle
-NARRATIVE-
"詠唱開始"
〜Count Down〜

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 命令が行き渡った。シークェイン救出に発ったカッシュを除いた魔導師団は、いつなりとも結界を発動させる準備ができている。
 痛みを感じた。心臓を太い針で突き刺されるような痛み。ティグレインは胸を押さえた。服と分厚い肩掛けを通して、破裂しそうな拍動を感じる。
 ―――恐れている?
 唇の端で笑う。
 ―――当然だ。
 一歩間違えば全てを滅ぼす魔法を詠唱するのだ。たとえその一歩を間違わなくとも、自らの命は失われるだろう。この恐怖は、至極自然な感情だ。
 ―――だが私がそれを口に出しては、全てが崩れ去るだろう。
 ティグレインはおもむろに己の耳飾りに触れた。何の宝飾も施されていない、地味な耳飾りだ。この数年間、生命力を魔力に変換し蓄積し続けた魔導具。その魔力を解放する時が来たのだ。
 ここに至って、カッシュやシークェインの無事を祈ることは、滑稽にさえ思えた。自分は今、彼らもろとも全てを葬ろうとしているのだ。だが、胸中の祈りをやめるつもりはない。杖を振るって兵士らを送り出すレリィの、あるいは兵士一人一人を見渡すディアーナの、命の奥底まで晒(さら)すように澄んだ瞳が思い起こされる。カルナリエもまた、同じ眼差しで自分を送り出した。そして今、自らも、己の戦場に立っている。
 低く厚い雲が急激に垂れ込め、標高の高いラドウェアの城は霧に沈みつつある。彼方から、魔動人形が城壁を打つ音が不気味に響き渡る。霧に飲まれる瓦礫の町並みを城の屋上から見渡しながら、ティグレインは力を込めて宣言した。
「《七星の王》、詠唱を開始する」
 魔導具を通した声に、地上に整列した魔導師団を取り巻く空気が張り詰めるのが、この距離からでも感じられた。
 触れていた耳飾りを毟(むし)り取るように外し、解呪の呪文を唱える。耳飾りは手の中でじわりと発光を始め、次の一瞬で内側から燃え上がるように魔力光を放った。ティグレインの髪が、外套(マント)が、まばゆい光になびく。手から流れ込み、身体の隅々までを満たす力。解放された力が魔導具の耐久力を超えたか、耳飾りは自ら溶けるように消えていく。
「あいさ」
 ヴァルトがいずこからか、ひと振りの短刀を抜き出した。透き通るような黒い刃。シャンクに持たせた曲刀と同じ素材であることは容易に想像できる。
 その短刀を、ヴァルトは袖(そで)をまくった自らの腕に当てた。そのまま内側に滑らせる。太い紅がひとすじ引かれ、しかしそれはすぐに細まって消える。ティグレインの目にも明らかな、再生の力。
 ―――やはり、貴殿は。
 あえて問わずにいた、ディアーナを呼ばなかった理由。詠唱の触媒として必要なはずの龍の血に、ヴァルトが一言も触れなかった理由。
 龍の血を受けし者。ディアーナと同じく、あるいはまた別の形で、龍の血族たりえる者。それが、魔導師を名乗るこの男、ヴァルト・レイザの、正体。
 膨大な量の魔力の奔流と、意識を保つのも難しいほどの高揚の中で、刃に残された血が黒い刀身に吸い込まれるのをティグレインは視認した。ヴァルトの横顔が、にやりと笑う。
「さ、地上最強を見せてやりますか!」

◇  ◆  ◇


「レリィ・ファルスフォーンは希代の巫女。その持つ力は最上級だ。ラドウェアの巫女の中でもな」
 舌なめずりをしている。ぼやけた目では実際にはっきりと見えたわけではないが、シークェインにはそう感じられた。エンガルフが一歩近づくごとに、自分の命の灯火が風圧で揺らぐのを感じる。
「私はずっと巫女を見ていた。あれが十三になった時からだ」
 シークェインの目の前に立ったエンガルフは、優に頭ひとつ高い彼を不遜に見上げると、鎧の首元を掴んで城壁に押しつけた。シークェインは抵抗できぬまま、荒い呼吸を繰り返す。
 ひどい目眩(めまい)がした。出血しているのだろうが、その源はいずことも知れない。体のどこがちぎれていてもおかしくはないほどの痛みを感じながらも、いっそ全身が自分のものではないような錯覚にさえ陥(おちい)る。
 エンガルフの指がシークェインの顎先を緩やかになぞり、優艶な手つきで兜の顎紐(あごひも)を外していく。
「霊界に棲まうものは、処女を捉えることはできぬ。それゆえに、ある男を使って処女を奪った。もっとも、私はほんの少し背中を押してやったにすぎないが」
「…なん、だと?」
 聞き取りがたいほどかすれたが、声はかろうじて出た。
「クックックッ…。見ものだったぞ。巫女が泣きわめいてあらがう姿は」
 レリィが決して口にしなかった過去。彼女が男性を必要以上に恐れる所以(ゆえん)。かつてレリィを強引に抱こうとしたシークェインに、彼女がひどく怯(おび)え拒絶し、狂ったように逃げ出した理由。
 その元凶が、目の前にいた。
「きさ…まは、ゆる…さん…」
 眼光で人を殺すことができたなら、この瞬間にエンガルフは死んでいただろう。《霊界の長子》はまるで意に介さず、両手でシークェインの兜を外す。汗で濡れた髪がしばらくぶりに外気に触れるが、その心地よさすら、今は余計な感情だった。
「レリィ…は……、おれ…の……、」
 獣のように唸るシークェインを涼しい顔で見やると、エンガルフは両手で持っていた兜を、一息に押しつぶした。
「残念だったな。私のものだ」
 角の生えた鉄くずと化した兜を放り投げる。地面に落ちたそれを見やることもなく、今度はシークェインの鎧の両肩に手を当てた。
「問いの答えがまだだったな。巫女を霊界に迎え入れるのだ。かつて我が母がそうであったように、霊界の花嫁として。そしてより力を持った子を産ませるのだ。我が分身をな」
 そのまま城壁に押しつける。呼吸の切れ目に、シークェインは声を絞り出す。
「させ…るか……」
 自らを奮い立たせるべく、自らの意識をここにつなぎとめるべく、力の限りを尽くして言葉を継ぐ。
「レリィ…には、おれの、子が……」
 エンガルフは唇の端を吊り上げると、シークェインの顔面に舌を這わせるかのように顔を近づけた。
「心配は要らぬ。私が真に欲するは巫女のみ、貴様の子はもののついでだ。もう少し育てば、我が力となすべく食らってやろう。巫女の胎内から引きずり出してな」
「き…さ、ま……!!」
 拳を、握りしめる。そこを起点に、全身の血が逆流する。震える顎を、歯を食いしばって止める。
 ―――おれはまだ、戦えるだろう。この体は、まだ動くだろう。
 ―――動け。そして、戦え。
「おおおお…!!」
 磔(はりつけ)の罪人が鎖を引きちぎるように、シークェインは己の体を壁から引きはがす。両手でエンガルフの首をつかみ、足腰に残された渾身の力を腕に込めて締め上げる。
 エンガルフの顔が苦悶に歪む―――はずだった。少なくとも、シークェインのかすむ目にはそう映っていた。だが。
 ―――シーク……。
 呼ぶ声に、はっと目覚める。
「レリ…」
 伸ばそうとした手は、動かない。ぐるぐると世界が回る。おぼろげな視界に、靄(もや)のかかった空と地面。城壁。頬に生ぬるい土の感触。何が起こっているのか、理解できない。
「近衛長を見習え。往生際の良さをな」
 降ってきた声が、耳鳴りを伴って届く。地面に触れていない側の頬に、靴底の圧力を感じた。
 ようやく、自分が倒れているのだと判った。いくばくかの間、意識を失っていたのだろう。
 ―――レリィ。
 体が冷たい。末端が震えを伴って感覚をなくしていく。窮地に立たされた時にこそ剛毅に笑うことを信条とする彼が、もはやそうすることもできなかった。
 ―――大丈夫だろう、おれがいなくても。
 ―――おまえ、強かったじゃないか。
 兵士らを命がけの戦場に送り出す巫女。今でも鮮明に思い出すのは、ラドウェア市街を襲った精霊獣らとの戦いに赴(おもむ)く彼女。
『女がこんなところでなにしてる』
『ばかにしないで。ラドウェアの巫女はいつだって戦場に立ってるのよ』
 ―――あの時。おれがいなくても、強かったじゃないか。
「どうした。返事もできなくなったか」
 せせら笑うエンガルフの声。頬を踏む足に力がかかる。だがそれも、抵抗する力を呼び起こすには至らなかった。瞬(またた)きもできない眼球の表面が乾いていく。視界が、白い闇に侵食され始める。
 ―――ああ、だめだ。墜(お)ちる。
 再び意識が遠ざかるのを感じながら、今度は弟の声を聞いたような気がした。

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